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虫プロダクション
現代で虫プロというと1977年設立の虫プロダクション株式会社のこと

日本アニメの歴史の源流に言及する際には1962年設立の株式会社虫プロダクションのこと。以降前株の虫プロダクションについて記述する
手塚治虫が30代の時につくったアニメスタジオ
東映動画で手塚原作の漫画がアニメ化されたが、その際に手塚治虫の絵コンテはボツになったので手塚は内容に不満があり、自分でもスタジオを立てた
東映動画から虫プロに若手を引き抜いた(平均年齢23歳)
他の会社より給料が良かった

1962年12月31日 世界で初めて週間放映のアニメをやった(鉄腕アトム
当時はアニメーションといえばフル・アニメーション
12 or 24fps
劇場長編アニメを制作していた東映動画は毎週30分のアニメは3000人必要だったので週刊放映不可能と判断
当時30人しかいない手塚のスタジオはどう実現したのか?
フルアニメで作ると2秒で30枚
リミテッド・アニメーションと口だけ動かして6枚
それでも30分放映に3000枚程度必要
業界本流のフル・アニメーション制作の目線から見たら単なる手抜き扱いで、「電気紙芝居」と蔑まれた


当時Startupで意思決定が早かった
当時大手の東映動画からきた大塚康生の感想?
虫プロは赤字で給与は手塚の持ち出しだった
給与支払いのために連載を増やした(8本)
体調を崩し、手塚のコンテが上がらないこともあった
手塚自身もアニメを描いた
1晩で30カット描いたこともあった
1晩で動画500枚
完璧主義の手塚は作家集団を望み、社内との対立もしばしばだった
商売ではなく夢の実現だと思っており、気に食わなければ修正があってもリテイク連発
自ら社内でプロダクションの方向性の信任投票をやった(この時270人)
1. 実験作品を作るプロダクション
2. 金儲けのプロダクション
毎回2が多数派だった
1965年、新作ジャングル大帝から外された
虫プロとは徐々に距離を置くようになり、手塚プロダクションを設立。
手塚原作漫画にスポンサーが必ずつく訳ではなかったので、別の原作物もやり始めた。自身の作品を原作とするアニメがあらかたなくなった1971年、手塚は虫プロ社長を辞任
手塚の面倒見は良かった