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松岡洋右
【衝撃】約90年前の日本外交官の英語が上手すぎた|字幕付き atsueigo

13-22歳まで渡米
オレゴン州に学僕として
人種差別を受けた
成績は優秀だった。オレゴン大学に進学
土木請負会社でナイフや銃を構えての交渉を体験する
政治理念が形成される
アメリカ人に脅されても、自分が正しい場合には譲ってはならない
対等の立場が欲しいなら、力に力で対抗しなければならない
帰国後、外交官試験に主席合格し外務省入省
1906 旅順に赴任
1908 ベルギー勤務を蹴って中国に残る
1912 ペテルスブルク
1913 ワシントン勤務
軽い結核症状が出て日本へ帰国
1917 外務大臣本野一郎の秘書官
1918 本野が外務大臣を引退
1921 外交官を辞任
家柄で決まる外務省に反発
幣原喜重郎と思想が合わなかった
満鉄 南満州鉄道株式会社に理事として入社
役員クラス 年収3-4億円
1927 満鉄副総裁
1928 退社
幣原喜重郎の外交の人事の結果
1930 衆議院議員となる
幣原喜重郎を批判。満州開発により日本の貧困を解決できると考えた
外交は経済を重視し、軍事支配をする気はなかった
柳条湖事件で外交方針が崩壊し、「砲火剣光の下に外交はない」と記している
リットン調査団の調査報告を審議する国際連盟の会議で演説をする
1h20mの演説をぶち上げた
イギリスの妥協案が提示された
主権を中華民国に認めたまま満州国を日本の勢力圏にする
松岡はこれで行こうと思ったが、内田外相が満州国の承認にこだわった
陸軍が熱河作戦を始めたことで状況が悪くなる
この時点で満州国の承認を認めていたのは日本だけ。新たな侵略には経済制裁が加わる
国際連盟を脱退しなければ経済制裁されてしまう
国際連盟「満州国の成立は認めない。満州事変以降の日本の責任を問う」日本以外ほぼ賛成。
結果的にこの演説をすることになった
政党解消連盟
1935 総裁として満鉄に再入社
1938 オトポール事件でユダヤ人を上海に脱出させる
1939 退社
1940 第二次近衛内閣の外務大臣となる
近衞は松岡なら(満鉄で)軍部にパイプを持ち、軍部に屈しないと考えた
まだ日中戦争は泥沼だった
外交問題
日中戦争の終結
日米関係の修復
ドイツ・イタリアとの同盟
軍部が松岡と三国同盟の議論をしていく中で三国同盟を自分の発想だと考えるようになる
松岡は異様に話好きだった
アメリカの強大さを理解していた
世界を4つに分割すると考えた
西欧・東亜・アメリカ・ソ連
東亜の中核は日本・満州・中国と考えた
指導国家により世界平和を作ろうと考えた
西欧の主導的な立場のドイツと組んで(日独伊三国同盟)、その後ソ連と組む(四国同盟)ことでアメリカと交渉できると考えた
ドイツとイギリスは戦っていてアメリカのドイツへの心象は悪かったが、日本の真意がわかればアメリカの態度は変わると考えた
四国同盟の条件にソ連がドイツの領土を要求してソ連とドイツの仲が悪くなった
Winston Churchillから「ドイツはソ連と戦争する」と手紙が届いていたが無視した
日ソ中立条約を電撃締結
松岡はこれでアメリカと対等な立場で交渉でき、平和的に友好関係を結べると考えた
しかし、帰国したタイミングで日本はすでに野村吉三郎とハルによる日米諒解案を作成していた
アメリカは蒋介石に和平勧告する
アメリカは満州国を承認する
日本との通商関係の回復
日米首脳会談の実施
近衛はこの案で行こうと考えたが、松岡は反発
自分に内密で交渉が進んだことが気に食わない
日本に有利な内容すぎて、ウラがありそう
実際、案は叩き台だったがそれを米国政府案と近衛は勘違いしていた
野村は厳しめのことが書かれているハル四原則を近衛に送らなかった
日米交渉を進めるため
5/13 日米諒解案の修正案を野村に訓電
三国同盟の無効化の拒否
日中和平におけるアメリカ干渉の拒否
日米首脳会談の拒否
6/21 アメリカは独ソ戦開戦を察知しており、厳しめの条件を突きつけてくる
6/22 独ソ戦が始まり、対応に追われる
日本は資源が必要だった
ソ連への北進
アメリカの植民地への南進
内閣の主流意見
松岡は四国同盟破綻で南進は厳しいと判断し、日ソ中立条約を破棄して北進を主張
資源の獲得が難しく、閣内で賛成が取れなかった
ん?資源獲得が必要だから北進って言ってたのはなんなんだ基素
すでに権力がなかった幣原喜重郎もこの点は松岡と意見が一致していた
近衛から見限られ、外務大臣を失脚
南進が始まり、日米交渉は難航する太平洋戦争が勃発する
「こんなことになってしまって、三国同盟は一生の不覚であった」
結核が進行。声を出すのも精一杯の状態だった。A級戦犯として刑務所生活。