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五・四運動(1919)
>1919年パリ講和会議のベルサイユ条約の結果に不満を抱き発生した、中華民国の北京から全国に広がった抗日、反帝国主義を掲げる学生運動
背景
新文化運動・白話文運動
>これらの運動は1910年代に起こってきた啓蒙運動で、陳独秀・李大釗・呉虞・胡適・魯迅・周作人などが運動のオピニオンリーダーであった。
>彼等は『新青年』や『毎週評論』といった雑誌を創刊し、それによって新思想を鼓吹した。
>全面的な西欧化や儒教批判、科学や民主の重視、文字及び文学改革などがその内容である。
>この運動を経た後だったからこそ、五四運動は抗日感情が高まっていながら、義和団の乱のような剥き出しの暴力性・宗教性をその性格としなかったのである。
不満の高まり
中国軍閥が日本に借款して日本軍が国内行動ができた
>袁世凱は待望の皇帝となったものの、世論の激しい反発を買い、失意のうちに没した。
>その後、後継争いが発生し、中国は軍閥割拠の時代に突入するが、自軍強化のために盛んに日本から借款を導入した。その代表例が段祺瑞・曹汝霖と寺内正毅・西原亀三の間で取り決められた西原借款である。見返りは中国における様々な利権であった。
>1918年5月には「日支共同防敵軍事協定」が結ばれ、日本軍の中国国内における行動を無制限とし、また中国軍を日本軍の下位におくこととした。
>これら軍閥と日本との癒着は、中国民衆の激しい反発を呼び起こし、抗日感情を非常に高める結果となった。
>パリ講和会議において日本側の「日本がドイツから奪った山東省の権益を容認」という主張が列強により国際的に承認されると...北京の学生数千人が1919年5月4日、天安門広場からヴェルサイユ条約反対や親日派要人の罷免などを要求してデモ行進をした。
>デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃して放火したり、たまたま居合わせた駐日公使章宗祥に暴行して重傷を負わせるなど、暴徒化した。