観畫談
(特選文学館から)
ずっと前の事であるが、ある人から気味合(きみあい)の妙な談(はなし)を聞いたことがある。そしてその話を今だに忘れていないが、人名や地名は今は既に林間の
焚火の煙のように、どこか知らぬところに逸し去っている。
話をしてくれた人の友達に某甲(なにがし)という男があった。その男は極めて普通人型の出来の好い方で、晩学ではあったが大学も二年生まで漕ぎ付けた。というものはその男が最初甚だしい貧家に生れたので、思うように師を得て学に就くという訳には出来なかったので、田舎の小学を卒(おえ)ると、やがて自活生活に入って、小学の教師の手伝いをしたり、村役場の小役人みたようなことをしたり、いろいろ困苦勤勉の雛型その物の如き月日を送りながらに、自分の勉強をすること幾年であった結果、学問も段々進んで来るし人にも段々認められて来たので、いくらか手蔓も出来て、ついに上京して、やはり立志篇的の苦辛の日を重ねつつ、大学にも入ることを得るに至ったので、それで同窓中では最年長者――――どころではない、五ツも六ツも年上であったのである。蟻が塔を造るような遅たる行動を生真面目に取って来たのであるから、浮世の応酬に疲れた皺をもう額に畳んで、心の中にも他の学生にはまだ出来ておらぬ細かい襞が出来ているのであった。しかし大学にある間だけの費用を支えるだけの貯金は、恐ろしい倹約と勤勉とで作り上げていたので、当人は初めて真の学生になり得たような気がして、実に清浄純粋な、いじらしい愉悦と矜持とを抱いて、余念もなしに碩学の講義を聴いたり、豊富な図書館に入ったり、雑事に侵されない朝夕の時間の中に身を置いて十分に勉強することの出来るのを何よりも嬉しいことに思いながら、いわゆる「勉学の佳趣」に浸り得ることを満足に感じていた。そして他の若い無邪気な同窓生から大噐晩成先生などという
諢名(あだな)、それは年齢の相違と年寄りじみた態度とから与えられた諢名を、臆病臭い微笑でもって甘受しつつ、平然として独自一個の地歩を占めつつ在学した。実際大噐晩成先生の在学態度は、その同窓間の無邪気な、言い換れば低級でかつ無意味な飲食の交際や、活溌な、言い換れば青年的勇気の漏洩に過ぎぬ運動遊戯の交際に外れることを除けば、何人(なんぴと)にも非難さるべきところのない立派なものであった。で、自然と同窓生もこの人を仲間はずれにはしながらも内は尊敬するようになって、甚だしい茶目吉(ちゃめきち)一、二人のほかは、無言の同情を寄せるにやぶさかではなかった。
ところが晩成先生は、多年の勤苦が酬(むく)いられて前途の平坦光明が望見せらるるようになった気の弛みのためか、あるいは少し度の過ぎた勉学のためか何か知らぬが気の毒にも不明の病気に襲われた。その頃は世間に神経衰弱という病名がはじめて知られ出した時分であったのだが、真にいわゆる神経衰弱であったか、あるいは真に漫性胃病であったか、とにかく医博士たちの診断も朦朧で、人によって異なる不明の病いに襲われて段々衰弱した。切り詰めた予算だけしか有しておらぬことであるから、当人は人一倍困悶したが、どうも病気には勝てぬことであるから、しばらく学事を
抛擲して心身の保養につとめるがよいとの勧告に従って、そこで山水清閑の地に活気の充ちた天地の
灝気(こうき)を吸うべく東京の
塵埃を背後(うしろ)にした。
伊豆や相模の歓楽郷兼保養地に遊ぶほどの余裕のある身分ではないから、房総海岸を最初は撰んだが、海岸はどうも騒雑の気味があるので晩成先生の心に染まなかった。さればとて故郷の
平蕪の村落に病躯を持帰えるのもいとわしかったと見えて、野州上州の山地や温泉地に一日二日あるいは三日五日と、それこそ白雲の風に漂い、秋葉の空にひるがえるが如くに、ぶらりぶらりとした身の中に、もだもだする心を抱きながら、毛繻子の大洋傘(おおこうもり)に色の褪せた制服、丈夫一点張りのボックスの靴という扮装(いでたち)で、五里七里歩く日もあれば、また汽車で十里二十里歩く日もある、取止めのない漫遊の旅を続けた。
憫(あわれ)むべし晩成先生、
嚢中自から銭ありという身分ではないから、随分切詰めた懐でもって、物価の高くない地方、贅沢気味のない宿屋を渡りあるいて、また機会や因縁があれば、客を愛する豪家や心置ない山寺なぞをも手頼(たよ)って、遂に福島県宮城県も出抜けて奥州のある辺僻の山中へ入ってしまった。先生ごく真面目な男なので、俳句なぞはうす生意気な不良老年の玩物(おもちゃ)だと思っており、小説稗史などを読むことは罪悪の如く考えており、徒然草をさえ、余り良いものじゃない、と評したというほどだから、随分退屈な旅だったろうが、それでもまだしも仕合せな事には少しばかり漢詩を作るので、それを唯一の旅中の楽しみにして、
踽然(くくぜん)として夕陽(せきよう)の山路や暁風の草径をあるき廻ったのである。
秋は早い奥州のある山間、何でも南部領とかで、大街道とは二日路(ふつかじ)も三日路(みっかじ)も横へ折れ込んだ途方もない僻村のある寺を心ざして、その男は鶴の如くに痩せた
病躯を運んだ。それは旅中で知合いになった遊歴者、その時分は折節そういう人があったもので、律詩の一、二章も座上で作ることが出来て、ちょっと米法山水や懐素くさい草書で白ぶすまを汚せる位の器用さを持ったのを資本(もとで)に、旅から旅を先生顔で渡りあるく人物に教えられたからである。君はそういう訳で歩いているなら、これこれの処にこういう寺がある、由緒は良くても今は貧乏寺だが、その寺の境内に小さな滝があって、その滝の水は無類の霊泉である。養老の霊泉は知らぬが、随分響き渡ったもので、二十里三十里をわざわざその滝へかかりに行くものもあり、また滝へ直接(じか)にかかれぬものは、寺のそばの民家に頼んでその水を汲んで湯を立ててもらって浴する者もあるが、不思議に長病が治ったり、ことに医者に分らぬ正体の不明な病気などは治るということであって、語り伝えた現の証拠はいくらでもある。君の病気は東京の名医たちが遊んでいたら治るといい、君もまた遊び気分で飛んでもない田舎などをノソノソと歩いている位だから、とてもの事にそこへ遊んで見たまえ。住持といっても木綿の法衣に襷を掛けて芋畑麦畑で肥柄杓(こえびしゃく)を振廻すような気の置けない奴、それとその弟子の二歳坊主がおるきりだから、日に二十銭か三十銭も出したら寺へ泊めてもくれるだろう。古びて歪んではいるが、座敷なんぞはさすがに悪くないから、そこへ陣取って、毎日風呂を立てさせて遊んでいたら妙だろう。景色もこれという事はないが、
幽邃でなかなか佳いところだ。という委細の談(はなし)を聞いて、何となく気が進んだので、考えて見る段になれば随分頓興(とんきょう)で物好きなことだが、わざわざ教えられたその寺を心当てに山の中へ入り込んだのである。
路はかなりの大きさの渓(たに)に沿ってのぼって行くのであった。両岸の山は或時は右が遠ざかったり左が遠ざかったり、また或時は右が迫って来たり左が迫って来たり、時に両方が迫って来て、一水遥かに遠く巨巌の下に白泡を立ててたぎり流れたりした。ある場処は路が対岸に移るようになっているために、あやうい丸木橋が目の眩(くるめ)くような急流に架っているのを渡ったり、またしばらくして同じようなのを渡り反(かえ)ったりして進んだ。恐ろしい大きな高い巌(いわ)が前途(ゆくて)に横たわっていて、あのさきへ行くのか知らんと疑われるような覚束ない路を辿って行くと、辛うじてその岩岨(いわそば)に線(いと)のような道が付いていて、是非なくも蟻の如く蟹の如くになりながら通り過ぎてはホッと息を吐くこともあって、何だってこんな人にも行会わぬいわゆる僻地窮境に来たことかと、いささか後悔する気味にもならざるを得ないで、薄暗いほどに茂った大樹の蔭に憩いながら明るくない心持の沈黙を続けていると、ヒーッ、頭の上から名を知らぬ禽(とり)が意味の分らぬ歌を投げ落したりした。
路がようやく緩くなると、対岸は馬鹿々々しく高い巌壁(がんぺき)になっているその下を川が流れて、こちらは山が自然に開けて、少しばかり山畠が段を成して見え、粟や黍が穂を垂れているかとおもえば、兎に荒されたらしいいたって不景気な豆畠に、もう葉を失って枯れ黒んだ豆がショボショボと泣きそうな姿をして立っていたりして、その彼方(むこう)に古ぼけた勾配の急な茅屋が二軒三軒と飛び飛びに物悲しく見えた。天(そら)はさっきから薄暗くなっていたが、サーッというやや寒い風がおろして来たかと見る間に、楢や
槲の黄色な葉が空からばらついて降って来ると同時に、木の葉の雨ばかりではなく、ほん物の雨もはらはらとやって来た。渓の上手(かみて)の方を見あげると、薄白い雲がずんずんと押して来て、瞬く間に峯巒を蝕(むしば)み、巌を蝕み、松を蝕み、忽ちもう対岸の高い巌壁をも絵心に蝕んで、好い景色を見せてくれるのは好かったが、その雲が今開いてさしかざした蝙蝠傘(こうもり)の上にまで蔽いかぶさったかと思うほど低く這下って来ると、堪らない、ザアッという本降りになって、林木も声を合せて、何の事はないこの山中に入って来た他国者(たこくもの)をいじめでもするように襲った。晩成先生もさすがに慌て心になって少し駆け出したが、幸い取付きの農家は直に間近だったから、トットットッと走り着いて、農家の常の土間へ飛び込むと、傘が触って入口の
檐(のき)に竿を横たえて懸け吊してあった玉蜀黍(とうもろこし)の一把をバタリと落した途端に、土間の隅の臼のあたりにかがんでいたらしい白い庭鳥(にわとり)が二、三羽キャキャッと驚いた声を出して走り出した。
何だナ、
と鈍い声をして、土間の左側の茶の間から首を出したのは、六十か七十か知れぬ白髪の油気のない、火を付けたら心よく燃えそうに乱れ立ったモヤモヤ頭な婆さんで、皺だらけの黄色い顔の婆さんだった。キマリが悪くて、傘をすぼめながらちょっと会釈して、寺のありかを尋ねた晩成先生の頭上から、じたじた水の垂れる傘のさきまでを見た婆さんは、それでもこの辺には見慣れぬ金ボタンの黒い洋服に尊敬をあらわして、何一つ咎立てがましいこともいわずに、
上へ上へと行げば、じねんにお寺の前へ出ます、ここはいわば門前村ですから、人家さえ出抜ければ、すぐお寺で。
礼をいって大噐氏はその家を出た。雨はいよいよひどくなった。傘を拡げながら振返って見ると、木彫りのような顔をした婆さんはまだこちらを見ていたが、妙にその顔が眼にしみ付いた。
間遠(まどお)に立っている七、八軒の家の前を過ぎた。どの家も人がいないように
岑閑としていた。そこを出抜けるとなるほど寺の門が見えた。瓦に草が生えている、それが今雨にぬれているのでひどく古びて重そうに見えるが、とにかくかなりその昔の立派さが偲ばれると同時に今の甲斐なさが明らかに現われているのであった。門を入ると寺内は思いのほかに
廓落(からり)と濶(ひろ)くて、松だか杉だか知らぬが恐ろしい大きな木があったのを今より何年か前に斫(き)ったと見えて、大きな切株の跡の上を、今降りつつある雨がおとずれてそこにそういうもののあることを見せていた。右手に鐘楼があって、小高い基礎(いしずえ)の周囲には風が吹寄せた木の葉が黄色くまたは赭くぬれ色を見せており、中ぐらいな大きさの鐘が、ようやくせまる暮色の中に、裾は緑青(ろくしょう)の吹いた明るさと、竜頭の方は薄暗さの中に入っている一種の物々しさを示して寂寞と懸っていた。これだけの寺だから屋の棟の高い本堂が見えそうなものだが、それは回禄したのかどうか知らぬが眼に入らなくて、小高い処に庫裡様(くりよう)の建物があった。それを目ざして進むと、ちょうど本堂仏殿のありそうな位置のところに礎石が幾つともなく見えて、親切な雨が降る度に訪問するのであろう今もその訪問に接して感謝の嬉し涙を溢らせているように、柱の根入りの竅(あな)に水を湛えているのがよく見えた。境内の変にからりとしている訳もこれで合点が行って、あるべきものが亡(う)せているのだなと思いながら、庫裡へと入った。正面はぴったりと大きな雨戸が鎖されていたから、台所口のような処が明いていたまま入ると、馬鹿にだだ濶い土間で、土間の向う隅には大きな土竈(へっつい)が見え、つい入口近くには土だらけの腐ったような草履が二足ばかり、古い下駄が二、三足、ことに歯の抜けた下駄の一ツがひっくり返って腹を出して死んだようにころがっていたのが、晩成先生のわびしい思いを誘った。
頼む、
と余り大きくはない声でいったのだが、がらんとした広土間(ひろどま)に響いた。しかしそのために塵一ツ動きもせず、何の音もなく静(しずか)であった。外にはサアッと雨が降っている。
頼む、
と再び呼んだ。声は響いた。答はない。サアッと雨が降っている。
頼む、
と三たび呼んだ。声は呼んだその人の耳へ反(かえ)って響いた。しかし答はどこからも起らなかった。外はただサアッと雨が降っている。
頼む。
また呼んだ。例の如くややしばし音沙汰がなかった。少し焦れ気味になって、また呼ぼうとした時、鼬(いたち)か大鼠かがどこかで動いたような音がした。するとやがて人の気はいがして、左方の上り段の上に閉じられていた間延びのした大きな障子が、がたがたと開かれて、鼠木綿が斑汚(むらよご)れした着附けに、白が鼠になった帯をぐるぐるといわゆる坊主巻きに巻いた、五分苅ではない五分ばえに生えた頭の十八か九の書生のような僮僕のような若僧が出て来た。晩成先生も大分遊歴に慣れて来たので、ここで宿泊謝絶などを食わせられては堪らぬと思うので、ずんずんと来意を要領よく話して、白紙に包んだ多少銭(なにがし)かを押付けるように渡してしまった。若僧はそれでも坊主らしく、
しばらく、
と、しかつめらしく挨拶を保留して置いて奥へ入った。奥は大分深いかして何の音も聞えて来ぬ、シーンとしている。外では雨がサアッと降っている。
土間の中の異(ことな)った方で音がしたと思うと、若僧は別の口から土間へ下りて、小盥へ水を汲んで持って来た。
マ、とにかく御すすぎをなさって御上りなさいまし。
しめたと思って晩成先生泥靴を脱ぎ足を洗って導かるるままに通った。入口の室は茶の間と見えて大きな炉が切ってある十五、六畳の室であった。そこを通り抜けて、一畳幅に五畳か六畳を長く敷いた入側見たような薄暗い部屋を通ったが、茶の間でもその部屋でも処々で、足踏みにつれてポコポコと弛んで浮いている根太板(ねだいた)のヘンな音がした。
通されたのは十畳位の室で、そこには大きな矮(ひく)い机を横にしてこちらへ向き直っていた四十ばかりの日にやけて赭い顔の丈夫そうなズク入(にゅう)が、赤や紫の見える可笑しいほど華美(はで)ではあるがしかしもう古びかえった馬鹿に大きくて厚い蒲団の上に、小さな円い眼を出来るだけ睜開(そうかい)してムンズと坐り込んでいた。麦藁帽子を冠らせたら頂上(てっぺん)で踊りを踊りそうなビリケン頭によく実が入っていて、これも一分苅ではない一分生えの髪に、厚皮らしい赭い地が透いて見えた。そしてその割合に小さくて素敵に堅そうな首を、発達の好い丸々とふとった豚のような濶(ひろ)い肩の上にシッカリすげ込んだようにして、ヒョロヒョロと風の柳のように室へ入り込んだ大噐氏にむかって、一刀をピタリと片身青眼につけたという工合に手丈夫な視線を投げかけた。晩成先生いささかたじろいだが、元来正直な君子で仁者敵なしであるから驚くこともない、平然として坐って、来意を手短に述べて、それからここを教えてくれた遊歴者の噂をした。和尚はその姓名を聞くと、合点が行ったのかして、急にくつろいだ様子になって、
アア、あの風吹烏(かざふきがらす)から聞いておいでなさったかい。ようござる、いつまででもおいでなさい。どこでも明いている部屋に勝手に陣取らっしゃい、その代り雨は少し漏るかも知れんよ。夜具はいくらもある、綿は堅いがナ。馳走はせん、主客平等と思わっしゃい。蔵海、(仮設し置く)風呂は門前の弥平爺にいいつけての、明日から毎日立てさせろ。無銭(ただ)ではわるい、一日に三銭も遣わさるように計らえ。疲れてだろう、脚を伸ばして休息せらるるようにしてあげろ。
蔵海は障子を開けて庭へ面した縁へ出て導いた。後に跟いて縁側を折れ曲って行くと、同じ庭に面して三ツ四ツの装飾も何もない空室(あきま)があって、縁の戸は光線を通ずるためばかりに三寸か四寸位ずつすかしてあるに過ぎぬので、中はもう大いに暗かった。ここがよかろうという蔵海の言(ことば)のままその室の前に立っていると、蔵海はそこだけ雨戸を繰った。庭の樹々は皆雨に悩んでいた。雨は前にも増して恐しい量で降って、老い朽ちてジグザグになった板廂からは雨水がしどろに流れ落ちる、見ると簷(のき)の端に生えている瓦葦(しのぶぐさ)が雨にたたかれて、あやまった、あやまったというように叩頭(おじぎ)しているのが見えたり隠れたりしている。空は雨に鎖されて、たださえ暗いのに、夜はもう逼って来る。なかなか広い庭の向うの方はもう暗くなってボンヤリとしている。ただもう雨の音ばかりザアッとして、空虚にちかい晩成先生の心を一ぱいに埋め尽しているが、ふと気が付くとそのザアッという音のほかに、また別にザアッという音が聞えるようだ。気を留めて聞くとたしかに別の音がある。ハテナ、あの辺か知らんと、その別の音のする方の雨煙濛(もうもう)たる見当へ首を向けて眼を遣ると、もう心安げになった蔵海がちょっと肩に触って、
あの音のするのが滝ですよ、あなたが風呂に立てて入ろうとなさる水の落ちる……
といいさして、少し間を置いて、
雨がひどいので今はよく見えませんが、晴れていればこの庭の景色の一ツになって見えるのです。
といった。なるほど庭の左の方の隅は
山嘴(さんし)が張り出していて、その樹木の鬱蒼たる中から一条の水が落ちているのらしく思えた。
夜に入った。茶の間に引かれて、和尚と晩成先生と蔵海とは食事を共にした。なるほど御馳走はなかった。冷たい挽割飯(ひきわりめし)と、大根ッ葉の味噌汁と、塩辛く煮た車輪麩(くるまぶ)と、何だか正体の分らぬ山草の塩漬の香の物ときりで、膳こそは創だらけにせよ黒塗の宗和膳とかいう奴で、御客あしらいではあるが、箸は黄色な下等の漆ぬりの竹箸で、気持の悪いものであった。蔵海は世間に接触する機会の少いこの様な山中にいる若い者なので、新来の客から何らかの耳新らしい談を得たいようであるが、和尚は人に求められれば是非ないからわが有(も)っている者を吝(おし)みはしないが、人からは何をも求めまいというような態度で、別に雑話を聞きたくも聞かせたくも思っておらぬ風で、食事が済んで後、しばらく三人が茶を喫している際でも、別に会話をはずませる如きことはせぬので、晩成先生はただわずかに、この寺が昔時(むかし)は立派な寺であったこと、寺の庭のずっと先は渓川で、その渓の向うは高い巌壁になっていること、庭の左方も山になっていること、寺及び門前の村家のある辺一帯は一大盆地を為している事位の地勢の概略を聞き得たに過ぎなかったが、蔵海も和尚も、時風の工合でザアッという大雨の音が聞えると、ちょっと暗い顔をしては眼を見合せるのが心に留まった。
大噐氏は定められた室へ引取った。堅い綿の夜具は与えられた。所在なさの身を直にその中に横たえて、枕許のランプの心を小さくして寝たが、何となく寐つき兼ねた。茶の間の広いところに薄暗いランプ、何だかめいめいの影法師が顧り視らるる様な心地のする寂しい室内の雨音の聞える中で寒素な食事を黙として取った光景が眼に浮んで来て、自分が何だか今までの自分でない、別の世界の別の自分になったような気がして、まさかに死んで別の天地に入ったのだとは思わないが、どうも今までに覚えぬ妙な気がした。しかし、何の、くだらないと思い返して眠ろうとしたけれども、やはり眠りに落ちない。雨は恐ろしく降っている。あたかも太古から尽未来際(じんみらいざい)まで大きな河の流れが流れ通しているように雨は降り通していて、自分の生涯のうちの或日に雨が降っているのではなくて、常住不断の雨が降り通している中に自分の短い生涯がちょっと挿まれているものででもあるように降っている。で、それがまた気になって睡れぬ。鼠が騒いでくれたり狗(いぬ)が吠えてくれたりでもしたらば嬉しかろうと思うほど、他には何の音もない。住持も若僧もいないように静かだ。イヤ全くわが五官の領する世界にはいないのだ。世界という者は広大なものだと日頃は思っていたが、今はどうだ、世界はただこれ、
ザアッ
というものに過ぎないと思ったり、また思いかえして、このザアッというのが即ちこれ世界なのだナと思ったりしているうちに、自分の生れた時に初めて拳げたオギャアオギャアの声も他人のぎゃっといった一声も、それから自分が書(ほん)を読んだり、他の童子(こども)が書を読んだり、唱歌をしたり、嬉しがって笑ったり、怒って怒鳴ったり、キャアキャアガンガンブンブングズグズシクシク、いろいろな事をして騒ぎ廻ったりした一切の音声(おんじょう)も、それから馬が鳴き牛が吼え、車ががたつき、車が轟き、船が浪を蹴開く一切の音声も、板の間へ一本の針が落ちた幽かな音も、皆残らず一緒になってあのザアッという音の中に入っているのだナ、というような気がしたりして、そして静かに諦聴すると分明にその一ツのザアッという音にいろいろのそれらの音が確実に存していることを認めて、アアそうだったかナ、なんぞと思ううちに、いつか知らずザアッという音も聞えなくなり、聞く者も性(しょう)が抜けて、そして眠りに落ちた。
俄然として睡眠は破られた。晩成先生は眼を開くと世界は紅い光や黄色い光に充たされていると思ったが、それは自分の薄暗いと思っていたのに相異して、室の中がランプも明るくされていれば、またその外に提灯などもわが枕辺に照されていて、眠りに就いた時と大いに異なっていたのが寝惚眼(ねぼけまなこ)に映ったからの感じであった事が解った。が、見れば和尚も若僧もわが枕辺にいる。何事が起ったのか、その意味は分らなかった。けげんな心持がするので、頓(とみ)には言葉も出ずに起き直ったまま二人を見ると、若僧が先ず口をきった。
御やすみになっているところを御起しして済みませんが、夜前からの雨があの通りひどくなりまして、渓(たに)が俄かに膨れてまいりました。御承知でしょうが奥山の出水は馬鹿に疾(はや)いものでして、もう境内にさえ水が見え出して参りました。勿論水が出たとて大事にはなりますまいが、ここの渓川の奥入(おくいり)は恐ろしい広い緩傾斜の高原なのです。むかしはそれが密林だったので何事も少かったのですが、十余年前に悉く伐採したため禿げた大野になってしまって、一ト夕立しても相当に渓川が怒(いか)るのでして、既に当寺の仏殿は最初の洪水の時、流下して来た巨材の衝突によって一角が壊(やぶ)れたため遂に破壊してしまったのです。その後は上流に巨材などはありませんから、水は度々出ても大したこともなく、出るのが早い代りに退くのも早くて、直に翌日は何の事もなくなるのです。それで昨日からの雨で渓川はもう開きましたが、水はどの位で止まるか予想は出来ません。しかし私どもは慣れてもおりますし、ここを守る身ですから逃げる気もありませんが、あなたには少くとも危険――――はありますまいが余計な御心配はさせたくありません。幸いなことにはこの庭の左の高みの、あの小さな滝の落ちる小山の上は絶対に安全地で、そこに当寺の隠居所の草庵があります。そこへ今の内に移っていて頂きたいのです。わたくしが直に御案内致します、手早く御支度をなすって頂きます。
ト末の方はもはや命令的に、早口に能弁にまくし立てた。その後について和尚は例の小さな円い眼に力を入れて睜開(そうかい)しながら、
膝まで水が来るようだと歩けんからノ、早く御身繕いなすって。
と追立てるように警告した。大噐晩成先生は一トたまりもなく浮腰になってしまった。
ハイ、ハイ、御親切に、有難うございます。
ト少しドギマギして、顫えていはしまいかと自分でも気が引けるような弱い返辞をしながら、慌てて衣を着けて支度をした。勿論少し大きな肩から掛けるカバンと、風呂敷包一ツ、蝙蝠傘一本、帽子、それだけなのだから直に支度は出来た。若僧は提灯を持って先に立った。この時になって初めてその服装(みなり)を見ると、依然としてさっきの鼠の衣だったが、例の土間のところへ来ると、そこには蓑笠が揃えてあった。若僧は先ず自ら尻を高く端折って蓑を甲斐々々しく手早く着けて、そして大噐氏にも手伝って一ツの蓑を着けさせ、竹の皮笠をかぶせ、その紐を緊(きび)しく結んでくれた。余り緊しく結ばれたので口を開くことも出来ぬ位で、随分痛かったが、黙って堪えると、若僧は自分も笠をかぶって、
サア、
と先へ立った。提灯の火はガランとした黒い大きな台所に憐れに小さな威光を弱と振った。外は真っ暗で、雨の音は例の如くザアッとしている。
気をつけてあげろ、ナ。
と和尚は親切だ。高々とズボンを捲り上げて、古草鞋を着けさせられた晩成子は、どこへ行くのだか分らない真っ黒暗の雨の中を、若僧に随って出た。外へ出ると驚いた。雨は横振りになっている、風も出ている。川鳴りの音だろう、何だか物凄い不明の音がしている。庭の方へ廻ったようだと思ったが、建物を少し離れると、なるほどもう水が来ている。足の裏が馬鹿に冷たい。親指が没する、踝(くるぶし)が没する、脚首が全部没する、ふくら脛(はぎ)あたりまで没すると、もうなかなか渓の方から流れる水の流れ勢(ぜい)が分明にこたえる。空気も大層冷たくなって、夜雨の威がひしひしと身に浸みる。足は恐ろしく冷い。足の裏は痛い。胴ぶるいが出て来て止まらない。何か知らん痛いものに脚の指を突っ掛けて、危く大噐氏は顛倒しそうになって若僧に捉まると、その途端に提灯はガクリと揺めき動いて、蓑の毛に流れている雨の滴の光りをキラリと照らし出したかと思うと、雨が入ったか滴がかかったかであろう、チュッといって消えてしまった。風の音、雨の音、川鳴の音、樹木の音、ただもう天地はザーッと、黒漆のように黒い闇の中に音を立てているばかりだ。晩成先生は泣きたくなった。
ようございます、今更帰れもせず、提灯をつけることも出来ませんから、どうせ差しているのではないその蝙蝠傘をお出しなさい。そうそう。わたくしがこちらを持つ、あなたはそちらを握って、決して離してはいけませんよ。闇でもわたしは行けるから、恐れることはありません。
ト蔵海先生実に頼もしい。平常は一ト通りの意地がなくもない晩成先生も、ここに至って他力宗になってしまって、ただもう世界に力とするものは蝙蝠傘一本、その蝙蝠傘のこっちは自分が握っているが、むこうは真の親切者が握っているのだか狐狸が握っているのだか、妖怪変化、悪魔の類いが握っているのだか、何だかかだかサッパり分らない黒闇々(こくあんあん)の中を、とにかく後生大事にそれに縋って随って歩いた。
水は段足に触れなくなって来た。爪先上りになって来たようだ。やがて段勾配が急になって来た。坂道にかかったことは明らかになって来た。雨の中にも滝の音は耳近く聞えた。
もうここをのぼりさえすれば好いのです。細い路ですからね、わたくしも路でないところへ踏込むかも知れませんが、転びさえしなければ草や樹で擦りむく位ですから驚くことはありません。ころんではいけませんよ、そろそろ歩いてあげますからね。
ハハイ、有り難う。
ト全く顫え声だ。どうしてなかなか足が前へ出るものではない。
こうなると人間に眼のあったのは全く余り有り難くありませんね、盲目の方がよほど重宝です、アッハハハハ。わたくしも大分小さな樹の枝で擦剥き疵をこしらえましたよ。アッハハハハ。
ト蔵海め、さすがに仏の飯で三度の埒を明けて来た奴だけに大禅師らしいことをいったが、晩成先生はただもうビクビクワナワナで、批評の余地などは、よほど喉元過ぎて怖いことが糞(くそ)になった時分まではあり得はしなかった。
路は一トしきり大いに急になりかつまた窄(せま)くなったので、胸を突くような感じがして、晩成先生は遂に左の手こそは傘をつかまえているが、右の手は痛むのも汚れるのも厭(いと)ってなどいられないから、一歩一歩に地面を探るようにして、まるで四足獣が三足(ぞく)で歩くような体(てい)になって歩いた。随分長い時間を歩いたような気がしたが、苦労には時間を長く感じるものだから実際はさほどでもなかったろう。しかし一町余はのぼったに違いない。ようやくだらだら坂になって、のぼりきったナと思うと、
サア来ました。
ト蔵海がいった。そして途端に持っていた蝙蝠傘の一端(いったん)を放した。で、大噐氏は全く不知案内の暗中の孤立者になったから、黙然として石の地蔵のように身じろぎもしないで、雨に打たれながらポカンと立っていて、次の脈搏、次の脈搏を数えるが如き心持になりつつ、次の脈がうつ時に展開し来たる事情をば全くアテもなく待つのであった。
若僧はそこらに何かしているのだろう、しばらくは消息も絶えたが、やがてガタガタいう音をさせた。雨戸を開けたに相違ない。それから少し経って、チッチッという音がすると、パッと火が現われて、彼は一ツの建物の中の土間にうずくまっていて、マッチを擦って提灯の蝋燭に火を点じようとしているのであった。四、五本のマッチを無駄にして、やっと火はついた。荊棘か山椒の樹のようなもので引っかいたのであろう、雨にぬれた頬から血が出て、それが散っている、そこへ蝋燭の光の映ったさまは甚だ不気味だった。ようやくそこへ歩み寄った晩成先生は、
怪我をしましたね、御気の毒でした。
というと、若僧は手拭を出して、ここでしょう、といいながら顔を拭いた。蚯蚓脹れの少し大きいの位で、大した事ではなかった。
急いでいるからであろう、若僧は直にその手拭で泥足をあらましに拭いて、提灯を持ったまま、ずんずんと上り込んだ。四畳半の茶の間には一尺二寸位の小炉が切ってあって、竹の自在鍵の煤びたのに小さな茶釜が黒光りして懸っているのが見えたかと思うと、若僧は身を屈して敬虔の態度にはなったが、直と区劃(しきり)になっている襖を明けてその次の室へ、いわば闖入せんとした。土間からオズオズ覗いて見ている大噐氏の眼には、六畳敷位の部屋に厚い坐蒲団を敷いて死せるが如く枯坐していた老僧が見えた。着色の塑像の如くで、生きているものとも思えぬ位であった。銀のような髪が五分ばかり生えて、細長い輪郭の正しい顔の七十位の痩せからびた人ではあったが、突然の闖入に対して身じろぎもせず、少しも驚く様子もなく落つき払った態度で、あたかも今まで起きてでもいた者のようであった。ことに晩成先生の驚いたのは、蔵海がその老人に対して何もいわぬことであった。そしてその老僧の坐辺のランプを点火すると、蔵海は立返って大噐氏を上へ引ずり上げようとした。大噐氏は慌てて足を拭って上ると、老僧はジーッと細い眼を据えてその顔を見詰めた。晩成先生は急に挨拶の言葉も出ずに、何か知らず叮嚀に叩頭(おじぎ)をさせられてしまった。そして頭(かしら)を挙げた時には、蔵海はしきりに手を動かして麓の方の闇を指したり何かしていた。老僧はうなずいていたが、一語をも発しない。
蔵海はいろいろに指を動かした。真言宗の坊主の印を結ぶのを極めて疾(はや)くするようなので、晩成先生はあっけに取られて眼ばかりパチクリさせていた。老僧は極めてしずかに軽くうなずいた。すると蔵海は晩成先生にむかって、
このかたは耳が全く聞えません。しかし慈悲の深い方ですから御安心なさい。ではわたくしは帰りますから。
トいって置いて、はじめの無遠慮な態度とはスッカリ違って叮嚀に老僧に一礼した。老僧は軽くうなずいた。大噐氏にちょっと会釈するや否や、若僧は落付いた、しかしテキパキした態度で、かの提灯を持って土間へ下り、蓑笠するや否や忽ち戸外(そと)へ出て、物静かに戸を引寄せ、そして飛ぶが如くに行ってしまった。
大噐氏は実に稀有な思いがした。この老僧は起きていたのか眠っていたのか、夜中真っ黒な中に坐禅ということをしていたのか、坐りながら眠っていたのか、眠りながら坐っていたのか、今夜だけ偶然にこういう態(てい)であったのか、始終こうなのか、と怪しみ惑うた。もとより真の已達(いたつ)の境界(きょうがい)には死生の間(かん)にすら関所がなくなっている、まして覚めているということも睡っているということもない、坐っているということと起きているということとは一枚になっているので、比丘(びく)たる者は決して無記(むき)の睡(ねむり)に落ちるべきではないこと、仏説離睡経に説いてある通りだということも知っていなかった。またいくらも近い頃の人にも、死の時のほかには脇を下に着け身を横たえて臥さぬ人のあることをも知らなかったのだから、びっくりしたのは無理でもなかった。
老僧は晩成先生が何を思っていようとも一切無関心であった。
□□さん、サアランプを持ってあちらへ行って勝手に休まっしゃい。押入の中に何かあろうから引出して纏いなさい、まだ三時過ぎ位のものであろうから。
ト老僧は奥を指さして極めて物静かに優しくいってくれた。大噐氏は自然に叩頭(おじぎ)をさせられて、その言葉通りになるよりほかはなかった。ランプを手にしてオズオズ立上った。あとはまた真っ黒闇になるのだが、そんな事をとかくいうことはかえって余計な失礼の事のように思えたので、そのままに坐を立って、襖を明けて奥へ入った。やはりそこは六畳敷位の狭さであった。間(あい)の襖を締切って、そこにあった小さな机の上にランプを置き、同じくそこにあった小坐蒲団の上に身を置くと、初めて安堵して我に返ったような気がした。同時に寒さがひどく身に染みて胴顫いがした。そして何だかがっかりしたが、ようやく落ついて来ると、□□さんと自分の苗字をいわれたのがひどく気になった。若僧も告げなければ自分も名乗らなかったのであるのに、ことに全くの聾(つんぼ)になっているらしいのに、どうして知っていたろうと思ったからである。しかしそれは蔵海が指頭(ゆびさき)で談(かた)り聞かせたからであろうと解釈して、先ず解釈は済ませてしまった。寝ようか、このままに老僧の真似をして暁に達してしまおうかと、何かあろうといってくれた押入らしいものを見ながらちょっと考えたが、気がついて時計を出して見た。時計の針は三時少し過ぎであることを示していた。三時少し過ぎているから、三時少し過ぎているのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。ジッと時計の文字盤を見詰めたが、遂に時計を引出して、ランプの下、小机の上に置いた。秒針はチ、チ、チ、チと音を立てた。音がするのだから、音が聞えるのだ。驚くことは何もないのだが、大噐氏はまた驚いた。そして何だか知らずにハッと思った。すると戸外(そと)の雨の音はザアッと続いていた。時計の音は忽ち消えた。眼が見ている秒針の動きは止まりはしなかった、確実な歩調で動いていた。
何となく妙な心持になって頭を動かして室内を見廻わした。洋燈(ランプ)の光がボーッと上を照らしているところに、煤びた額が掛っているのが眼に入った。間抜な字体で何の語かが書いてある。一字ずつ心を留めて読んで見ると、
橋流水不流
とあった。橋流れて水流れず、橋流れて水流れず、ハテナ、橋流れて水流れず、と口の中で扱い、胸の中で咬んでいると、忽ち昼間渡った仮そめの橋が洶々と流れる渓川の上に架渡されていた景色が眼に浮んだ。水はどうどうと流れる、橋は心細く架渡されている。橋流れて水流れず。サテ何だか解らない。シーンと考え込んでいると、忽ち誰だか知らないが、途方もない大きな声で、
橋流れて水流れず
と自分の耳のはたで怒鳴りつけた奴があって、ガーンとなった。
フト大噐氏は自ら嘲った。ナンダこんな事、とかくこんな変な文句が額なんぞには書いてあるものだ、と放下(ほうげ)してしまって、またそこらを見ると、床の間ではない、一方の七、八尺ばかりの広い壁になっているところに、その壁をいくらも余さない位な大きな古びた畫画の軸がピタリと懸っている。何だか細かい線で描いてある横物で、打見たところはモヤモヤと煙っているようなばかりだ。紅や緑や青やいろいろの彩色が使ってあるようだが、図が何だとはサッパリ読めない。多分ありがちな涅槃像か何かだろうと思った。が、看るともなしに薄いランプの光に朦朧としているその畫面に眼を遣っていると、何だか非常に綿密に楼閣だの民家だの樹だの水だの遠山だの人物だのが描いてあるようなので、とうとう立上って近くへ行って観た。するとこれは古くなってところどころ汚れたり損じたりしてはいるが、なかなか叮嚀に描かれたもので、巧拙は分らぬけれども、かつて仇十州(きゅうじっしゅう)の畫だとか教えられて看たことのあるものに肖(に)た畫風で、何だか知らぬが大層な骨折りから出来ているものであることは一目に明らかであった。そこでことさらにランプを取って左の手にしてその図に近々と臨んで、ランプを動かしては光りの強いところを観ようとする部分に移しながら看た。そうしなければ極めて繊細な画が古び煤けているのだから、ややもすれば看て取ることが出来なかったのである。
畫は美(うる)わしい大江(たいこう)に臨んだ富麗の都の一部を描いたものであった。図の上半部を成している江(え)の彼方(むこう)には翠色悦ぶべき遠山が見えている、その手前には丘陵が起伏している、その間に層塔もあれば高閤もあり、黒ずんだ欝樹(うつじゅ)が蔽うた岨(そば)もあれば、明るい花に埋められた谷もあって、それからずっと岸の方は平らに開けて、酒楼の綺麗なのも幾戸かあり、士女老幼、騎馬の人、閑歩の人、生計にいそしんでいる負販(ふはん)の人、種々雑多の人が蟻ほどに小さく見えている。筆はただ心持で動いているだけで、勿論その委曲が畫(か)けている訳ではないが、それでもおのずからに各人の姿態や心情が想い知られる。酒楼の下の岸には畫舫もある、舫中の人などは胡麻半粒ほどであるが、やはり様子が分明に見える。大江の上には帆走っているやや大きい船もあれば、篠の葉形の漁舟もあって、漁人の釣しているらしい様子も分る。光を移してこちらの岸を見ると、こちらの右の方には大きな宮殿様(よう)の建物があって、玉樹花(ぎょくじゅきか)とでもいいたい美しい樹や花が点綴してあり、殿下の庭様(よう)のところには朱欄曲々(しゅらんきょくきょく)と地を劃して、欄中には奇石もあれば立派な園花もあり、人の愛観を待つさまざまの美しい禽(とり)などもいる。段と左へ燈光(ともしび)を移すと、大中小それぞれの民家があり、老人(としより)や若いものや、蔬菜を荷なっているものもあれば、蓋(かさ)を張らせて威張って馬に騎っている官人のようなものもあり、跣足で柳条に魚の鰓(あぎと)を穿(うが)った奴をぶらさげて川から上って来たらしい漁夫もあり、柳がところどころに翠烟を罩(こ)めている美しい道路を、士農工商樵漁、あらゆる階級の人が右徃左徃している。綺錦の人もあれば襤褸の人もある、冠(かぶ)りものをしているのもあれば露頂のものもある。これは面白い、春江の景色に併せて描いた風俗画だナと思って、また段に燈(ともしび)を移して左の方へ行くと、江岸がなだらになって川柳が扶疎としており、雑樹がもさもさとなっているその末には蘆荻が茂っている。柳の枝や蘆荻の中には風が柔らかに吹いている。蘆のきれ目には春の水が光っていて、そこに一艘の小舟が揺れながら浮いている。船は籧(あじろ)を編んで日除兼雨除けというようなものを胴の間にしつらってある。何やら火爐(こんろ)だの槃(さら)だのの家具も少し見えている。船頭の老夫(じいさん)は艫の方に立上って、牁(かしぐい)に片手をかけて今や舟を出そうとしていながら、片手を挙げて、乗らないか乗らないかといって人を呼んでいる。その顔がハッキリ分らないから、大噐氏は燈火(ともしび)を段々と近づけた。遠いところから段々と歩み近づいて行くと段々と人顔が分って来るように、朦朧たる船頭の顔は段々と分って来た。膝ッ節しも肘もムキ出しになっている絆纏みたようなものを着て、ごくごく小さな笠を冠って、やや仰いでいる様子は何ともいえない無邪気なもので、寒山か拾得の叔父さんにでも当る者に無学文盲のこの男があったのではあるまいかと思われた。オーイッと呼わって船頭さんは大きな口をあいた。晩成先生は莞爾とした。今行くよーッと思わず返辞をしようとした。途端に隙間を漏って吹込んで来た冷たい風に燈火はゆらめいた。船も船頭も遠くから近くへ飄(ひょう)として来たが、また近くから遠くへ飄として去った。唯これ一瞬の事で前後はなかった。
屋外(そと)は雨の音、ザアッ。
大噐晩成先生はこれだけの談(はなし)を親しい友人に告げた。病気はすべて治った。が、再び学窓にその人は見(あら)われなかった。山間水涯に姓名を埋めて、平凡人となり了(おお)するつもりに料簡をつけたのであろう。ある人は某地にその人が日に焦(や)けきったただの農夫となっているのを見たということであった。大噐不成なのか、大噐既成なのか、そんな事は先生の問題ではなくなったのであろう。
(大正十四年、改造)