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好奇心を入り口にして自分の内面に迫っていく
妻と雑談している中で、自分は「妻に母親的な役割を求めたくない」と思っていることがわかった。

いつからこの考えを持っているかはわからないけれど、いや、考えと呼ぶにはずいぶん無意識的だったから感覚とでも呼ぶのがいいかな、ともかく気付いたときにはこの感覚があった。母親は母親で妻は妻なんだから、子どものころのぼくが母親に期待していたような役割を妻に押し付けるのはなにか違うような気がしている。

で、妻と話しながら「なんでこんな感覚があるんだろうね?」と自分の感覚に対して興味がわいた。

仮説。ぼくが 3 歳のときにが生まれて、6 歳のときにはが生まれて、わりと早い段階で「お兄ちゃんなんだから」的な自立を周囲から期待されていたような覚えがある。その期待に応えようとして「親に甘えてはいけない、甘えるべきではない」という考えで強い気持ちをもって親に甘えないようにしていたのではないか。それで、実は「母親に甘えたい」という欲求をうまく消化できないまま大人になってしまい、それを妻にぶつけてしまわないように逆に気を張っている、とか…?

38 歳になっても、自分の中に「こういう感覚があるかもしれない」と新たな発見があるのはおもしろい。

特に『サピエンス全史』を読んでから、ある事象に気付いたときに「なに由来なのか?」「源流はどこなのか?」をよく気にするようになったと思う。自分の中の「これは好き」「こういうのは嫌い」といった感覚とか、妻の考え方の傾向とか、その一部をつかまえることができたときに、手繰り寄せてその先を知りたくなる。どうしてキリンさんはあんなに首が長いの?みたいな、素朴な興味が愛おしい。

好奇心に身を委ねて、いろんな対象に興味を持つこと
ある事象には、そうなるに至った経緯があるかもしれないという視点を持つこと

自分のことをもっともっと知っていきたい。