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出口の見つからない善意

全 3 回のインタビュー記事。2019-11-24 に世に出たやつ。おもしろかった。その中で「出口の見つからない善意」という話が出てきて印象に残ったので、あれこれメモしていく。

以下、生みの親であるところの都築忠彦さんの発言で気になったやつを引用していく。

>僕は、視聴率は、取れるときに取ればいいって考えです。取れるものでベースを作った上で、あとからテーマ性のあるものも打ち出していけばいいんです。

>それに、面白いことに、ある時点から「バラエティー的な内容も、社会派の内容も地続きに感じられる」なんて声が視聴者から寄せられるようになるんですね。視聴率も、社会派の企画をやっても落ちなくなった。これに関しては、大橋巨泉という天才のおかげ、という部分が大いにあります。

当時は地続きじゃなかったのだなあ。

>そうです。当時、毎年夏に40日ずつほど北欧に行って、福祉における先進的な取り組みを取材していたんですよね。当時の日本は収容主義で、箱物を作ることばかり議論していたんだけれども、すでに北欧で進んでいた在宅看護を紹介したんですよ。

当時の日本からしたら、そうとう先進的なテーマを扱っていたんじゃないの?と思う。

>まず考えたのは、「コンシャスニス・レイジング」、つまり多くの人にまず問題に気づいてもらいたい、ということでした。

「Consciousness raising」

大義があってのことだったのだなあ。もちろん、後付けでこういう言葉が付与されたのかもしれないけれど、だとしても、なにも考えていない人からは出てこない言葉だと思う。

>テレビを見て、問題意識を持った子どもたちが募金に集まる、それを生放送で見た視聴者がさらに募金をする、自分たちの力で現実が変わったことが目に見える……これは24時間放送ならではの側面だと思います。

今だと YouTuber が似たようなことをやったりしている。

>タモリさんも僕も、偉そうなのが生理的に嫌いで。

>要するに全部、チャリティーという権威をコケにするコマーシャルなんですよ。タモリさんって権威主義に対してものすごい嫌悪感を持っていて、初期の芸風なんて、全部そんなものだったでしょう。

>そうそう。そう言えば、デーブ・スペクターさんがひょこっとスタッフルームを覗いて、『24時間テレビ』のことを「日本人に一番似合うチャリティーだね」と褒めてくれたことがありました。

それまでの「チャリティー」って権威的だったのかな。「真面目にやるのはかっこわるい」的なアレだろうか。

>それでは、『24時間テレビ』の原点であるコンシャスネス・レイジング、つまり問題をまず知ってもらうという、大事な機能が失われてしまいます。世の中には暴力や格差、差別といった問題がたくさんあるわけなんだけれども、そうした問題を解決するには、まず知ってもらわなければならないでしょう? そのためにコンシャスネス・レイジングは必要です。

>もし日本テレビがやらずに、『24時間テレビ』がやっていることを新しくやるとなると、人にも施設にも莫大な費用がかかって、それこそ寄付どころではなくなると思いますよ。スポンサーを集めるためのテレビ番組なしで、しかもノウハウや信用もなしで、出来ると思いますか? コンサル会社みたいなのが出てきて、多額のお金を取られ、別の偽善がはびこり大赤字になると思いますよ。

たしかにコンシャスネス・レイジングは今後も必要だろうとは思う。しかし同時に、それをやる母体として「テレビ局」が最適なのかは、令和元年の今日には自明ではないとも思う。商業主義の飲み込まれずにいられるのか、という点についてぼくは懐疑的。

>そもそも、マイノリティが努力して障害を克服する姿を、子どもたちが見て感動することを僕は“感動スイッチ”と呼んでいます。感動スイッチによって、世の中が動き、差別撤廃のきっかけになることもあります。

感動スイッチってのはありそう。ぼくは『Queer Eye』を見ているときにそれを感じるかな。

>それは、おっしゃるとおりですね。ただ、医療モデルから社会モデルに変換したのも、割と最近のことじゃないかと思います。表現にも、段階があるんじゃないか。

医療モデル社会モデル。なるほど。これは『人口減少社会のデザイン』で語られていた内容に通じていそうだ。

>ええ。『24時間テレビ』が始まった当初は、プロデューサーたちにも偏見があって、「障害者を映すなんてとんでもない、視聴率が下がる」「スポンサーが逃げるからやめろ」なんて言われていたんですよ。そんな時代に視聴者が関心を持つ形で障害者を画面に出せたら、それが必ずしも社会モデルと合致する表現でなかったとしても、「前進」と言って良かったはずです。

当時、社会を前進させていたのだろうな、と思わされる。

>飯尾潤さんっていう政治学者の方が、最近、「出口の見つからない善意」っていうのをおっしゃっているんですね。漠然と「いいことをしたい」って思っているんだけど、分かりやすい“出口”がないから、具体的に何をしたらいいか分からない。そういう気持ちを持っている人が、人口の半分くらいいるというような話なんですよ。

「出口の見つからない善意」なるほど。飯尾潤さん、どこでこういうお話をしているのだろう?ちょっと検索したくらいじゃ出典を見つけられなかった。

>それは、わたしに言われるまでもなく、今の制作者たちが一番よく分かっていることだと思います。番組に対する批判は彼らに届いているし、そうした声に応えていかなきゃいけないということを、彼らもプロですから、十分分かっている。視聴者の声に応えないと、視聴率も取れなくなるし、スポンサーも集まらなくなるのがテレビですから。

OB としてとやかく言わないスタンスはいいな〜と感じた。

>現場の後輩たちと話すと、『24時間テレビ』をやりたくて志望する学生がいる、すでにごく若い女性プロデューサーが何人も立候補してくれている、と言います。こうした新しい世代が、この番組を使って全く新しい『24時間テレビ』をつくり、世の中を新しくしてくれると信じています。「テレビってここまでやっていいんだ、ここまでできるんだ」と思わせる番組になって欲しいですね。

24時間テレビをやりたい」って人がいるんですねぇ。24時間テレビ自体は What だと思うので、それを通じてなにを実現したいのかっていう Why の部分がちゃんとしていれば、これからもよい番組になるのかな、というどこから目線かわからないコメントで終わる。