コミュニケーションや協調についての考え
日常的に「コミュ力が高い」「協調性がある」などの言及が聞こえてくる
しかしそこで指すものは個人によって解釈に幅があり、見かけ上の会話が成立していても安心はできない
そこで自分の考えを整理し明文化しておくことで、認識合わせの助けにしたい
自分を中心として見た社会があったときに、自分が難なくやりとりできる輪というのがあると思う
この輪の内側を「
ウチ」と、外側を「
ソト」と言ったりもする
ぼくは、この輪の外側の人々ともうまく協働できる人について「コミュニケーション能力が高い」「協調性がある」と認識する
輪の内側の人々とうまくやれる人ってのは「ふつう」という評価
できないよりはできた方がいいけど、できるからといって能力が高いとは評価しない
輪の内側の人々との会話で、輪の外側の人について「あいつって本当に空気が読めないよな〜」などと言うような人は、自分のことを「自分は空気が読める」「コミュ力がある」「協調性がある」と自己評価しているのかもしれないけれど、ぼくはそうは思わない
むしろそういった「排斥」は、様々な人々の力を合わせてよりよい時間を過ごしたい、よりよい活動をしていきたい、よりよい成果を目指したいといった場合には「害悪」にすらなりうる
自分と異なる個体を排除しようとするのは協調では決してなく、ただ楽をしようとしているだけ
参考
>日本の学生に際立って欠けているのは、一言で言えば、自分と価値観も行動規範も違う「他者」と対面した時に、敬意と好奇心をもって接し、困難なコミュニケーションを立ち上げる意欲と能力だということです。
>学校で子どもたちが身につけたのは、自分と価値観も行動規範もそっくりな同類たちと限られた資源を奪い合うゼロサムゲームを戦うこと、労せずしてコミュニケーションできる「身内」と自分たちだけに通じるジャルゴンで話し、意思疎通が面倒な人間は仲間から排除すること、それを学校は(勧奨したとは言わないまでも)黙許してきました。
>今からちょうど4年前の2015年4月、私は東京大学総長として初めての入学式に臨みました。みなさんの多くも新入生として、同じ式に出席されていたと思います。その席で私がみなさんに伝えたメッセージの中に、「多様性を活力とした協働」という言葉がありました。覚えているでしょうか。
>私たちは、ついつい自分が主流派・多数派に属していると思い込むことで安心を得ようとします。翻って、自分と異なる他者に対しては「変わり者」や「異端」のレッテルを貼りがちです。一方で、多数派に属しているつもりだった自分が、何かのはずみで突然「異端」の側に立たされてしまうという事態が、いとも簡単に起こりえるのです。だからこそ、多様性を尊重するということの重要性を、常に強く意識しなければならないのです。
>まもなく「ポスト平成」の時代が幕を開けます。そこでは、誰もが同じ未来を見据え、同じ目的に向かって邁進することに迷いのなかった高度成長期とは違う生き方が求められるでしょう。一人一人が本当に心を躍らせることのできる理想を探し、その経験や感覚を大切にしながら、同時に他の人の楽しさをも尊重して生きていくべき時代です。
>全員が一つの幸福に向かうのではなく、多様な幸福が共存し、緩やかに結合する。そうした社会のあり方を、まさにともに心躍らせる活動として模索してください。それが「多様性を活力とした協働」なのです。私はみなさんに、そのような活動を牽引する、新たな時代のリーダーになっていただきたいと願っています。