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7年前の自分に再会してきた - diary.jgs.me
7年前の自分と再会してきた。
今では滅多にを描いたりしていないので、意外に感じるひとが多いかもしれないが、僕は中学時代美術部員だった。絵との付き合いは結構長くて、元を辿っていくと、幼稚園時代にまで遡る。僕の通っていた幼稚園園長先生は結構有名な画家だったそうで、級友たちが外で遊んでいるのに園内でダラダラしている僕に絵を描いてくださって、それを後生大事に持ち帰った記憶がある。その園長先生が絵画教室を開いていて、卒園後からそこに通っていた。今でも実家にいくつか作品が飾られているし、コンクールに入選したものの展示会金沢だったり富山だったりして家族小旅行みたいな感じで見に行ったりしたのだった。
それから中学に上がって、上がった当初はクラブ水泳に打ち込んでいたので学校部活動自体に興味がなく、帰宅部として1ヶ月ほど活動していた。そんな折に、美術の授業後に美術の先生に呼び出されて、放課後に美術室にきなさいということだったので、行ってみたら「じゃ、今日から美術部員ね」と半ば強引に美術部に入部させられた。フルでいなくてもいいからと、許可をもらってゆるい感じで参加していた。実際、部活動自体も漫画とかで描かれるような美術部っぽいことはあまりしなくて、基本的には自分たちのしたい活動を勝手にしていたので、気楽だったし、楽しかった。ガチで水彩描いてるひともいたし、金槌が標準装備のひともいた。僕はというと、シャーペンのみでモリモリ描いたり、マスキングテープにハマってテープペインティングを試行錯誤したり、いろいろやった。たまたま父親の仕事の都合で、巨大なロール紙が手に入ったときには部活に持って行って、みんなで巨大な絵を作り上げたこともあった。学校の廊下の端から端までロール紙を広げて、靴下チョーク持って走り回ってたら雨の日運動部顰蹙を買ったりしたものだった。
そこへ、中学校移転の話がやってくる。僕の通っていた中学校は、僕が卒業してすぐ移転することになっていて、通っていた頃にも移転する話題がよく出ていた。そこで、我らが美術部には「どうせ廃校になるしなにやってもいいよ」という許可が出たので「じゃあ、トイレの扉に絵を描きましょうか」という話になり「テーマ四季でいこう」と、とんとん拍子に話が進み、放課後便所に張り付くようになった。僕の担当は、職員便所だったので先生がこられる度に挨拶をしながらの作業になった。担当の季節も僕の好きなだった。
あれから7年経って、ふらっと旧校舎に立ち寄る機会があった。かつて学舎だったところは、遺物の展示スペースになっていて、入館料も無料だったので見物してきた。が、僕の描いた扉のあるスペースは立入禁止になっていた。しょうがないので、職員さんに「むかしここに通っていたのですが」と尋ねてみた。一緒にいたゆきよちゃんは「すぐに身分証明書出せるようにしとこうね!!」と盛り上がっていた。
僕「あそこのね、職員トイレのところに絵を描いていったのですが〜」
職「ああ、それだったらまだ残っていますよ、見ていかれますか?」
とすんなり了承してくださったので、なんと7年ぶりに我が息子も同然の自分の作品と面会してきた。久々に再会したら、デカデカと自分の名前のサインを残していてすごく恥ずかしかった。自分がいたことを刻みたかったのかもしれない。「しゅどう」とかメチャ寒いしなにやってんだよって感じだけど「そういえば、この手形は中学当時の自分の手形をとったんだった」と思い出して手を合わせてみた。少し今の方が大きかった。
あと、この作品でも繰り返し使ってる魚の鱗みたいなやつは、もう手の癖のようなもので僕の作品の大半はこのモチーフが使われていたりする。それから、大きいサイズに描くのも好きで、今から思い出してもある種ピリオドのような作品だ。それがこういう公共の空間に鎮座していることが嬉しいし、陽があまりあたらないせいか日焼けや色落ちなどもほとんどなく、綺麗に残っていて本当に嬉しかった。
今は直接を握ることも、マスキングテープを貼ることもしなくなったけれど、クリエイティビティの源流は確かにここにあるし、Webという巨大なカンバスに時にはcssという筆で、時にはnode.jsというマスキングテープで作品を作っている。僕をここへ導いてくだすった方々にもう直接感謝の言葉を伝えることはもう叶わないが、ここに書くことでそのことを残しておこうとおもった。そしてなにより、これからも表現を続けていくことが恩返しだとおもっている。

December 30th, 2013 12:18am