露悪 vs 不謹慎
特にストーリーの類型、というか
#コンテンツ の作風について「露悪」と「不謹慎」の違いがあるというのを個人的に感じており、それについてまとめる。
両者はなんとなく外から似たようなものと思われがちだが実際には違うものであり、時には対立する。
一方が好きな人にもう一方を勧めるとしばしば悲劇が起こる。
また、これらの傾向は個別にあるというだけで、全ての作品/作者/読者がこれらに大別されるというわけではない。
できるだけ「どちらが優れている」という話にしないつもりだが、私自身は「不謹慎」寄りの嗜好が強く、これを理由に「露悪」寄りの作品を薦められるたびに苦い顔をしているのでフェアな書き方にならないかもしれない。
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露悪は「善良さ」に対抗する
露悪の主要な動機は「読者に厳しい現実を味わわせてやりたい」である
彼らが「平和な〇〇の村」「お花畑」と呼ぶものをどのように転倒していくかが主題になる
新井英樹は何かのインタビューで「電車で読んでるサラリーマンに朝から嫌な顔をさせてやりたい」と言ってたような気がする
ソースがない、完全にどこで読んだか忘れた
「善良さ」というと高潔な何かが想像されそうだが、ニュアンスとしては「思いやり」のほうが近そう
露悪は青年
#漫画 、特に背伸びして青年漫画を読み始めたような読者と相性が良い
うまくハマればふつうの意味で流行りやすい
世の中で「鬱展開」と呼ばれるものは露悪を部分的に取り入れたようなケースが多い
二次創作で、本編終了後のキャラクターが「現実的な」大人になる話は露悪の人が描いて露悪の読者にウケる
「青年期」というものへのシニカルさは露悪の原動力としてよく見られる
不謹慎は「社会性」に対抗する
不謹慎の主要な動機は「みんなが持ってる前提や二項対立の綻びを見たい」である
別に破壊や攻撃をするのが目的とは限らないが、もしそれがなかったらどうなるのかを知りたい
それはしばしば直接的な攻撃というより「茶化し」や「そもそも論」として現れる
ときに露悪の人がこれを見ると「本当は攻撃したいのに遠回しにやってる卑怯なやつ」と思ってしまう
なぜなら露悪の人は、常識を崩す動機には「他者への攻撃」か「自虐」しか存在しないと思っているから
露悪以外の人からはふつうに嫌な人と思われるが、それはしょうがない
逆に不謹慎の立場から見ると、露悪のやってることは所詮社会性のある人間同士の内ゲバである
客観的に見て、不謹慎の人はふつうの意味で陰湿
だが不謹慎の人は、むしろ他人を勝手に卑怯扱いする人々に「高次の陰湿さ」を見出すことがある
不謹慎の人もシリアスな話を好みはするが、「まじめな人がまじめな戦いで死ぬ」様子に意味を見いだせないことがある
「暴走族にも時間のルールや強固な上下関係がある」みたいな話をみたときにバカバカしい気持ちが湧いたり
「なんだ、悪人ですらしょせん資本主義の歯車にすぎないのか(つまんねー)」
不謹慎の人は、露悪の人もそうでない人も同じに見えており、平等に茶化すほうが「誠実」であると思ってしまう
不謹慎の人から見ると、「青年と大人の対立」は物語のテーマとしては何ら本質的ではない
なぜならこれも所詮は「社会的人間たち」の内ゲバにすぎないから
露悪と不謹慎では常識を揺るがす思想に対する態度が異なる
たとえば反出生主義に触れたとき、露悪の人は「人生が楽しいふつうの人を脅かす思想」だと受け取ってその善し悪しを考える
不謹慎の立場からはこうした露悪の態度が論理を解さないバカに見える
「賛同するかどうか」の話をしてる時点でもうダメで、「ふつうの人」と同じ穴の狢だろうと考える
不謹慎の人はそもそも「意見」が嫌いである
露悪の人はこういう思想を提示するのは常識的な人を攻撃するためである、以外の理由を想像できない
ので、真剣にこういう話を論じたがる態度は理解できないし、現実離れしたものとしてあしらってしまう
露悪の人は善悪への懐疑はあるが、「現実」を重視しすぎるためあるところまで行くと急に常識的なことを言い始める
不謹慎の人はまさにこうした綻びを露悪の人に「発見」し、落胆してしまう
不謹慎の人は、たとえば反出生主義を見たときに「良い問題を出すな〜」ぐらいに思うはず
重要なのはどう解くかであって、その内容に賛同するかどうかではない
こういう思考実験から何が言えるか、の方が大事であると考える
そもそもその手の道徳や
#倫理 に対する疑いが出発点にあるので
一方、不謹慎の人は他人の常識が崩れるさま自体を楽しく思うので、ポリコレもまたうまく「料理」して付き合えないかと思ってしまう
スイカに塩をふるみたいな感じで
つらい話を見るときにポリコレを内面化することで「味変」できないか、とか
が、こうした態度が普通の意味でポリコレに賛同する人からは嫌われてしまう
それはそう。不謹慎なので
露悪のエロと不謹慎のエロは異なる
NTR や BSS は露悪の考えと相性が良い
というかエロで流行るジャンルは露悪と相性が良いものが多い(メスガキとか)
だとすると、現代で性表現を擁護するにはある程度、露悪を擁護せざるを得ない面があることになる
R-18 に限らず、関係がドロドロする話は全般的に露悪と相性が良い
関係がドロドロしないのにナチュラルに相手が変わったり、あっけらかんと複数人で交際するとかだと不謹慎寄りになる
#百合 / BL などのコンテンツにおいて、「常識的な性愛」に対する扱いに露悪と不謹慎の差が出ることがある
流石に同性愛そのものを背徳的に描く作品は減ってるが、その他の部分で性愛を相対化するのは今でも流行っている
3人以上で交際する、を「常識を揺さぶるもの」としてセンセーショナルに描くのは露悪の発想
仮にセンセーショナルなものを描くとして、そういう態度をおくびにも出さない方が良い、というのが不謹慎の美学
そういう態度を出すこと自体が「世に阿っているみたいで」なんか嫌だ、ということになる
これが善意ではなく反感によって動機づけられているところがポイントかもしれない
同性同士の関係で「あえて異性のキャラを出す」は露悪でも不謹慎でもありうる
それを「あえて」だと思うのがそもそも露悪寄り
不謹慎の人は「あえて現実的に」を嫌うので、そういうことをするときはできるだけ淡々と描く
というか、淡々としてる方が「エラい」という発想になる
雑誌『楽園 -le paradis-』は本当にエラい人たちが集まってる
不謹慎のエロは、露悪のエロと扱う題材がかぶることもあるが、描き方が異なる
どうみても倫理的ではないことを淡々と描くし、淡々と描く方が美しいという価値観になる(ならざるをえない)
露悪の人と不謹慎の人では「リアリティ」の意味が異なる
露悪の人は道徳を胡散臭く思い、「厳しい現実」を重視する
したがって、現実のできごと(と彼らが思ってるもの)に近いことがリアリティの定義になる
不謹慎の人は本人が特に善人ではなく、真偽的に正しいことを言うわけでもない
したがって、
#美 ぐらいしか拠って立つものがない
「整合性のある美」を通じてリアリティを目指すことになる
「本当にありそうと信じられるほどの強度」があることがすなわちリアルである
たとえどんなに現実に似てようと、美としての強度がないものを「リアル」と呼ぶ態度をくだらなく感じてしまう