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鳥(映画)
1963制作の映画

アルフレッド・ヒッチコックの超有名作。これまた一言で言うと「とにかく鳥が襲ってくる、ただそれだけの映画」。問題は「なぜ」鳥が襲ってくるのかなのだが、ネタバレ恐れず結論から言うと「なぜなのかはわからない」。

そりゃまあ、いろいろと考察はできる。主人公のメラニー(ティッピ・ヘドレン)は、ペットショップで出会ったミッチ(ロッド・テイラー)の妹キャシーへのプレゼントとして、つがいのラブバードをプレゼントするのだが、そこから鳥が襲ってくるようになったので、それが原因だとも考えられるし、メラニーがボデガ・ベイに来てから、鳥が襲撃してくるようになったので、作中ボデガ・ベイの住人も言うように「メラニーがボデガ・ベイに来たのが原因」とも言える。ミッチの母親リディアは、ミッチを他の女性に取られミッチがいなくなってしまうことを恐れていたから、その無意識が鳥となって人間を襲ったのだといった解釈だってできそうだ(ミッチの元恋人アニー(スザンヌ・プレシェット)が殺されるし、リディア自身はなんだかんだで無傷だし)。

だが、そのうちの「どれ」も、それが唯一の原因、理由だとする決定的な証拠に欠けるし、どうしてもこじつけになってしまう。それに特定の何かが原因だとすると、他のエピソード、設定は「真犯人」が誰だかわからなくするためのただのデコイだってことになる。だから、鳥襲撃の「真犯人」を推理する映画では、これはないのだと思う。

ただ鳥が襲ってくる映画とだけ言うと一体何がおもしろいのかと思うが、2時間ある本作、なぜだか楽しんで最後まで飽きずに観ることができた。ヒッチコックなんだから、名作なんだから当然だと言うかもしれないが、こちらは映画というジャンルに一切の思い入れも知識もないから、小津安二郎だっておもんないと思ったらおもんないと言うことに躊躇がない。でも、この「鳥」は掛け値なしにおもしろいのだ。なんでなんだろう。

名作、名匠とされているから良いに決まってると言えばそうなのだが、そうした思い込みを排除して、なんならどこかケチつけられないかと思いながら見ると、ケチつけられる要素も少なくない。ケチつけられるというか、先述した通り、この映画「伏線だらけ」なのだが、それが回収しきれてないのだ。リディアはミッチに女が近づくのを恐れている。これだけ鳥が襲撃して鳥を見るだけで恐怖を感じてもおかしくない状況でそれでもキャシーは「ラブバードはどこ」「ラブバードも連れていって」とラブバードのことを気にしてばかりいる。メラニーは過去に「ローマの泉に裸で飛び込んだ」と、父親が経営する新聞社のライバル社に記事を書かれている。ミッチとメラニーはどうやらお互いに好意を持っているらしい。アニーとミッチは過去に付き合っていた。

こうした設定のどれもが「提示されただけ」で終わっている。簡単に言うと「だから何なんだ」「それなくても話成り立つじゃないか」なのである。たとえば、メラニーは過去にローマの泉に裸で飛び込んだというエピソード。必要だろうか。なくても映画にはなる。ミッチの元カノがアニーという設定も別に必要がない。もちろんアニーが過去にミッチと仲良くしていたら、母親のリディアから敵意を向けられたというエピソードを説明するためにはアニーが元カノであるという設定は生きてくるのだが、でもそのリディアがそんな女であるという設定も、別に要らないって言えば要らない。

でも、これらを抜いていってしまうと、本当にただ、田舎町で鳥が理由もなく人間を死ぬまで襲ってくるだけの話になる。それは怖くないのである。要らないものが要るというか、「なぜ」かはわからないが鳥が襲ってくるという状況の中でも、人間は耐えられずにそれが「なぜ」かを考えてしまう、「誰か」を犯人だと思いたくなる。そして、その「なぜ」に答えがないこと、「要らない」エピソードや設定が存在することが、どこに足場を置いていいのかわからず、ぼんやりとでも確実に恐怖を感じさせるのだ。

当たり前のことだが、現実に鳥が集団で人間を死ぬまで襲ってくるなんてことはあり得ない。作中、食堂にいた鳥に詳しい老婆も言う通り、そんなことは「ありえない」。ありえないことが起きるのが映画で、でも、「ありえないこと」だけなら、映画館を出たらその恐怖は現実の中で忘れられてしまう。ところが、解決されない要素だらけのこの映画は、解決されないからこそ、観終わった後も「引っかかる」。死んだ元カノ、息子コンプレックス、根も葉もない悪評を立てられること、よそ者に対するムラの警戒心。そうしたものがすべて解決されず、ただそのままあることが、それが鳥の襲撃と関係あるんだかないんだかわからないのが怖いのだろう。

なお、メラニーは左利きである。俺じゃなかったら見逃してるね。