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羅生門

芥川龍之介藪の中を原作にしているのだけれど、大きな改変がある。芥川の小説では多襄丸、女、男の三人が三人、「自分が下手人だ」と主張する。そのどれもが真相のように思えるのは現場の物的証拠からではなく、人間心理によるリアリティがあるからだ。人間の心理を考えれば、「あの男を殺してください」と女に言われたという多襄丸のストーリーも、男から蔑みの目で見られたため自分が殺したという女のストーリーも、あまりの絶望に自刃したという男のストーリーも、どれも「ありそう」どころか「そうなる必然」を感じる、というのが芥川の小説のポイントだ。

映画羅生門では、最後25分ほど残して、三人の証言パートは終わってしまう。残りの時間、何をするのかと思ったら、なんと殺害現場の第一発見者である男が「自分が見た四つ目のストーリー」を語ってしまう。これによって、三人が三人「自分こそが下手人」と主張するバランスが崩れてしまう。四つ目のストーリーを語るこの男の語りからすると下手人はやっぱり多襄丸だからだ。3票がそれぞれバラバラな状態から、多襄丸2票、女1票、男1票に変わってしまう。しかも、この四人目の証言者となった男は三人と違って当事者ではないため、その心理的葛藤がない。「人間の心は好きなものを信じる」「人の心は恐ろしい」「真相は藪の中」だというメッセージが四人目の証言者のせいで薄まってしまい、「なんか多襄丸がやっぱり刺したっぽいですね」となってしまう。ましてや女は気絶しており気づいたら短刀が.....という証言だし、男の証言は巫女の口を借りてのものだから信憑性のバランスが悪くなる。

また「真実と人間心理」という意味での「人が信じられない」と、「誰もが我利我利亡者で自分のことしか考えてない」という意味での「人が信じられない」が混線していて、正直、映画のテーマがこのためボヤけてしまっているのは否めない。男が赤子を引き取るラストも希望を残していると言えば言えるが、「それまでの話なんやってん」という、視聴者の醒めたツッコミを許容してしまう。

>小嶋裕一 "なかでも最も辛辣なのは、そもそも映画『羅生門』誕生のきっかけを作った共同脚本家橋本忍の次のような意見だろう。木樵りの証言と捨て子のエピソードは黒澤の創作であるが、その加筆部分を読んだ橋本は「問題はラストで、ラストでは私が読み始めから予測し危惧していた通りの――破綻が待っていた。[…]このラストの芝居が浮いている」とした上で、「付け焼き刃」だとはっきり断じている"https://shizuoka.repo.nii.ac.jp/records/9914 小嶋裕一 - Mastodon
やっぱり。黒澤の創作であり、蛇足、破綻だと制作側にも意識があるみたい。

それでもこれを入れないと尺も足りないし、最後は巫女の口を借りた男の自刃という地味なシーンで終わってしまうし、映画的なおもしろさが弱くなる。また、この四つ目の証言パートでの女のセリフがいい。男から勝手にまなざされ、モノとしてだけ扱われつづける話の中で、「私を殺すならまず先に多襄丸を殺してからにしろ」「多襄丸も多襄丸。手をついてお願いして俺のものになってくれとは何事か」(ざっくり)と言って情けない男たちの勝手を糾弾し争いを扇動する、この追加パートでの女のセリフがあることでまた別の部分でのバランスが取れているし、その後の、芥川の『羅生門』ストーリー=「所詮この世は力と力、自分勝手に生きて何が悪い」への接続を自然にしている。

四人目の証言者の語りだけ絶対性が強くなってしまう点も、「は言わねえ」と連呼するくせに検非違使では異なるストーリーを平気で語り、赤ん坊の見ぐるみを剥ぐ男を責めるくせに、自分も死体から短刀をパクってることを隠す、この男の人間としての弱さのおかげで弱められている。そうした工夫によってバランスをとろう、見せ場をつくろうという意識は見られる。

映像についてはもう素晴らしいの一言。白黒だからこそ「映える」映像美、役者の演技の力強さ、顔から身体から沸き立つ色気、効果的なBGMと場面のシンクロとさすが名作であり、極上のエンタテイメント。