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愛しのローズマリー
2001年製作の映画

主人公のハル・ラーソン(ジャック・ブラック)は、幼いときに死んだ父の遺言「胸もケツもでかい、とにかくいい女を手に入れろ」(苦痛軽減のためのモルヒネの大量投与によって支離滅裂になっていた)に縛られ、自身はチビで太っているさえないルックスであるにも関わらず、手当り次第にとびきりの美人にばかりアタックしては袖にされていた。友人たちは言う。「あなたはとてもいい人だけれど、女性の見た目にとらわれすぎている」と。

そんなある日、ハルは事故で動かなくなったエレベーターに、有名な自己啓発書作家のトニー・ロビンズ(wikiを見ると、実在の人物らしい)と二人きりで閉じ込められてしまう。密室で救助を待つ間、恋が上手くいかない悩みをハルはトニーに打ち明け相談する。トニーは大事なのは心の美しさだと言い、ハルにある種の催眠術をかける。結果、ハルは心が美しい人が美しく、醜い人が醜く見えるようになってしまう。が、本人はそのことに気づかない。

ある日、ハルは超巨大サイズの下着を見ているスタイル抜群の絶世の美女、ローズマリー・シャナハン(グウィネス・パルトロー)と出会う。平和部隊に志願し、病院に入院している子どもたちを定期的に見舞いに行く心の美しいローズマリーだったが、そんなローズマリーを愛するハルに周囲は怪訝な顔をする。ハルにはスタイル抜群の美女に見えているが、実は現実のローズマリーは130kgを越す巨漢だった......という設定の恋愛コメディ。

「美人に見えるが実際はブス」というバカの一つ覚えの設定頼みだからワンパターンになりがちだし、ルックスいじりはそれだけで不愉快になりかねない。果たしてそれで2時間映画を転がせるのかと思ったが、楽しんで最後まで見ることができた。直接ブスやデブをブスだから笑う、デブだからバカにするのではなく、主な笑いが「美人に見えるハルと周囲との認識齟齬」にフォーカスしているため、思ったよりもルッキズムが気になりにくいのだろう。

いや、正直に言おう。最後まで映画を楽しく見れてしまった最大の理由は、ローズマリーが、それを演じるグウィネス・パルトローが、とにかく愛しいからだ。ところどころでローズマリーの「真実の姿」も映りはするのだが、基本的に、視聴者に対して提示されるのは「ハルから見えてるローズマリー」、つまりスタイル抜群で美人で心やさしい社長令嬢(ローズマリーはハルの勤務先の社長の娘)である。ところが、そんな美人が自分のことは心底ブスだと思っているし、男の人と親しくなったこともないという。自分のことを美人だと思ったことがない「美人」。周囲からも美人だとは扱われない、それどころかただのブスとして扱われている「美人」。このシチュエーションが考えてみれば意外と珍しい。だからその新鮮さで本作に惹きつけられてしまうのだろう。

とまあ、映画自体は難しく考えなければただただかわいいローズマリーに見入り、あまり腹もたれもしない軽快な笑いに身を任せているうちに楽しく見終えることができる良作なのだが、映画を見終わった後はどうしたっていろいろ考えてしまう。今、自分が見せられたものは一体何だったのか。「大事なのは心の美しさだ」という建前としてのメッセージに反して、実際に受け取っているメタメッセージ、楽しんでいるものは真逆で「美しく見えることは正義」だったりもするのだから。

「心の美しい人が美しく見え、心が醜い人が醜く見える」ということを、映像、視覚表現で伝えられる、伝わっているということは、「この人は今、当然美しく見えてますよね?」「醜く見えてますよね?」という暗黙の了解が製作側と視聴者との間に成り立っていなければならない。要するに「美しい見た目とは何であり、醜い見た目とは何なのか」が事前に共有されており、そこが揺らがないからこそ、「本当は醜いけれど今ハルの目には美しく見えている」とか「本当は美しいけれど今ハルの目には醜く見えている」が成り立っている、映像として視聴者に伝わるわけだ。が、そうなると気になるのは、じゃあここで「美しい」とされるものは何で、「醜い」とされるものは何なのかだ。

結論を言うと、この映画で「醜い」とされるものは、まずデブ。ハゲ。そして老い。あとはそうだとわかるトランスジェンダー(実際作中でクライング・ゲームに対する言及もある)。火傷の跡などの身体的外傷。(わかりにくいが)若干の歯並びの悪さである。って、こうやって挙げていくと本当にルッキズムひどいな。

作中、ハルの催眠術は、異常に気づいた友人のマウリシオ(ジェイソン・アレクサンダー)によってあるとき解かれてしまう。
催眠術が解けた後のハルが「大事なのは見た目じゃない。ぼくはローズマリーの心に恋しているんだ」とかなんとかすぐに言ってくれればいいのだが、そうはならない。「なぜ催眠術を解いたんだ? 主観的に美しく見えていたら、それは実際に美しいのと本人にとっては同じなのに」「他人がどう思おうと知るか!」くらいしか言わないし、マウリシオが「もう一度催眠術をかけてもらえ」と言うと「それだ!」と言う。ハルにとっては確かに「他人にどう見えているか」は最初からどうでもいいのかもしれない。けれどもこの段階では「自分にとって美しく見えることはとても重要であり、その美しさの基準も一般的なものとほぼ同じ」ということにしかならない。美しさ、それも「見え」としての美しさに価値があることは微塵も疑われてなかったりする。

ただ、ここからがこの映画の「いいところ」である。

その後、以前お見舞いに訪問した病院で、まったく病人のようには見えなかったケイデンスという少女の「本当の姿」をハルは知ることになる。顔に大きな火傷の跡があるのだ。

また、ハルには以前、なかば無理やりデートをしてもらったこともあるジルという美人がいる。ハルは女の人を見た目で判断ばかりする浅薄な人間だと思っていたため、それまではハルとの関係を望んでいなかったジルだったが、ローズマリーのようなデブと付き合うハルを見て「見た目で判断するような浅い人間ではなかった」と気づいたジルは、ハルに「一緒にベッドで食事しない?」と誘う。催眠術がかかった後でもジルはハルには美人に見えているわけで、ジルは見た目だけでなく、心も美しい女性なのだとわかる(本作で催眠術の前後で見た目が変わらない登場人物が3人いる。ジル、友人のマウリシオ、身体障害者で下半身不随のウォレスである)。

ここで「心が美しいし見た目も美しい女性」(ジル)と「心が美しいが見た目は美しくない女性」(ローズマリー)の対比があり、それでもハルはローズマリーを選ぶことになる。「男の人生には何度か決断のときが訪れる」「道を選ばなければならないんだ」「今までの道は運次第でいろんな女性と付き合える」「その反対の道はたった一人の女性と一生を過ごす」「二番目の道はお楽しみを逃すけどとても大事なものを得られるんだ」。そう言ってハルは二番目の道、つまりローズマリーを選ぶことにする。

友人から「いい人」だと言われているハルだが、実はここに至るまでは「いい人」だと思えるエピソードはほとんどまったくない。むしろ①女を見た目でしか選ばないし、②美しければ誰でもいいから声をかける、非常に嫌なやつにしか見えない。けれども、ケイデンスとのエピソードで①を、ジルとのエピソードで②を否定した後のハルは大変魅力的なのだ。前半は単なる勘違い非モテが美人だと思ってブスと付き合う滑稽で笑いをとり、後半でハルはいい人なんだと視聴者にわからせるとともに、「見た目で判断すること自体の暴力性」を視聴者にも問うという構造になっている。

2001年の映画だから、ルッキズムという視点から見たときには、たしかにひどい描写もある。トランスジェンダーをネタにするような箇所はさすがに看過できない。それに、結局のところ「美人のローズマリー」=グウィネス・パルトローの魅力を一番に楽しんでしまっている自分がいる。けれども、だからこそ、後半での「果たしてあなたはハルと同じ道を選べるか?心の美しいいい人になれるか?」という問いも刺さってくる。一見して軽い映画だが、問いかけてくるもの、問いかけられているものは決して軽くはないのだ。