弱者男性
>では、「弱者男性」の定義を考えてみよう。ネットでは、理系・科学的であることを男性性のプライドにしている者が少なからずいるが、「弱者男性」という言葉はろくな定義もなく使われている。「弱者男性」とはネットスラングであり、様々な用語法でいい加減に使われている言葉であり、決定的な定義は存在しないというのが現状である。第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか
> 彼女は、「日本には最大1500万人の弱者男性」(男性の24%)がいると言う。彼女は、以下のカテゴリに当てはまる人を「弱者男性」と定義し推計する。そのカテゴリは、「障がい者、信者の家族、引きこもり、介護者、虐待サバイバー、犯罪被害サバイバー、多重債務者の家族、容姿にハンディのある人、貧困、性的マイノリティ、境界知能、非正規雇用・無職、コミュニケーション弱者、3K労働従事者、在日外国人、民族的マイノリティ、きょうだい児」であり、合計が推計して1500万人である。彼女の議論の特徴は、弱者男性論とミソジニーを切り離そうとする点であり、公的な対策を志向していることにある。第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか
女性差別を無効化する言説としての弱者男性論
> 「弱者男性」てそもそもが女性差別を指摘する言説を「男性だって弱者がいるんだ」というwhataboutismで無効化するためのタームだと理解してる
> 「弱者男性」に同乗する気が殆ど起こらない理由は、非常に多くの弱者男性自認者やその同調者がシスヘテロ健常日本人成人男性以外は「本当の弱者」の枠から排除しようとするし、もっと言えばそれに当てはまる人物でも例えばホームレスや生活保護受給者を「真の弱者」に含めようとしないからだ。
> 自分が「弱者男性」論がほぼ例外なくゴミだと断言しているのは、多くの「弱者男性」やその思想的賛同者が障害者や生活保護受給者を差別しているのを見てきたから。
間違った弱者男性論をただす
大筋みなさんが言ってることに同意するが、だとしたら、だからこそ、①既存の弱者男性論と②弱者男性とを区別し、①は否定しつつも②を擁護する言説を作っていかないとマズいだろう。
インターセクショナリティを考えれば「男性」だから強者だとは必ずしも言えなくて。だからこそ不可視化されているものを見ていくことは重要だし、そういうことをまともにやっていくことで、①のような弱者男性論の正当性を奪っていくべき。
あと、なぜ①のような弱者男性論が出てくるのか。女を否定するために持ち出されているのが弱者男性論なのかもしれないが、なぜそこまでして女を否定しようとするのか。男性の苦しみを女性の否定としてしか語れない構造がそこにあるのではないか。
>確かに、男性の「つらさ(被抑圧性)」を語る言説はバックラッシュや、「男性特権」の温存と見做されやすく、実際にそう機能しがちである。しかし男性の権力性や特権性への批判を一面的に行う議論では、男性の被抑圧性や複数性(男性の中にも、強弱や、様々な階層や属性があること)を上手く言語化や問題化ができなくなってしまうこともまた確かなのだ。第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか
>「男もつらい!」という発言が、フェミニズムや女性を攻撃し、居直るために使われる場面も多い。それに警戒する余り、男性の抱える問題を議論しようとすること自体が、ミソジニーや反フェミニズムだと早合点されてしまい、この問題が語りにくくなってしまうという構造的な問題も既に男性学の中で議論されてきた。私見では、フェミニズムへの反発の一部は、そのような「早合点」(もしくは妥当であれば過剰であることもある政治的な警戒心・危惧)によって生じている部分がある。だから、ここを丁寧に扱い、「早合点」を抑制することができ、男性のつらさなどの言語化が促進されれば、ミソジニーや反フェミニズムも減るはずなのだ。第1回 「弱者男性」──男性には「特権」があるのか、それとも「つらい」のか
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クソリベラル界隈、またろくに話も聞かずにクッソ荒い「解像度」と貧弱な想像力だけで勝手に色々決めつけて雑な括りでレッテル貼って偏見垂れ流してんのか。。。
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弱者男性と(既存の)弱者男性論は違うってだけの話なのに、弱者男性という立論自体を疑ってる、とかやってしまう。結果、弱者男性が頼れる言論資源は(既存の)差別的な弱者男性論しかなくなり、既存の弱者男性論にある種の正当性を与えてしまう、ということを理解したらむしろ「弱者男性」を肯定するのは戦略的にも正しいんだけど、「戦略的」という発想もないのがリベラルだから……。森さん - Mastodon
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むしろゴミみたいな弱者男性論がなぜ発生してるかというと、男性が男性の辛さを語る言葉を奪われているからでは。今、多くの男性が経済的に苦しい。だけれどそれを言っても「男はマシ」とか言われてしまうなら、「女だって得してる」を言わざるを得なくなる。別に異性を否定せんでも自らの苦しさは語れる。そういう言論資源としての正しい弱者男性論をリベラルこそ構築していくべき。森さん - Mastodon
あるべき弱者男性論はフェミニズムやクィアスタディーズと共闘すべき
経済的な弱者の他に「性的に」「恋愛上」弱者である人たちもいるのは間違いない。それについて「私的な領域のことだから」とか「個人のことだから個人でなんとかしてください」とその苦しさを否定するのはよくない。それこそ単なる
マッチョイズムになりかねない。
フェミニズムからのダブルバインド参照。
そうした意味での弱者男性が辛いのは、個人的に人間関係で満たされていないこともあるが、
恋愛至上主義+
強制的異性愛によるところも大きい。(適切な異性関係を十分に構築できない人間には価値がないかのような言説はある)弱者男性の本来の敵は女性でもフェミニズムでもなく、恋愛至上主義、強制的異性愛である。
むしろフェミニズムやクィアスタディーズから、弱者男性は多くを学べる。
①「私的な領域のことだから」「個人のことだから個人でなんとかしろ」と個人の問題として扱われることに抵抗し、公私の区別自体と、そこで「私的であること」の過小評価に対して徹底的に批判してきたのがフェミニズムだから。
それなのに、なぜか
非モテ、
インセルは女性やフェミニズムに対して敵対心を燃やしてしまう。
弱者男性の定義
> その日本弱者男性センターによると、弱者男性の定義はこのようになっている。ここでいう弱者男性とは、痴漢冤罪や痴女などといった性犯罪の被害にあう、配偶者あるいは恋人からのDVや周囲の者から苛めや虐待を受ける、精神疾患や環境によって就職が困難な者等であって、尚且つその事実または意見が社会的に広く認知されていないような男性をいう。わざわざ「尚且つその事実または意見が社会的に広く認知されていない」と書き記したのには、おそらく「弱者男性とは、単にモテない男性である」という偏見が世の中に広まりつつあるからだろう。弱者男性1500万人時代 トイアンナ