ロッキー
なんとなくのイメージで「社会の敗残者みたいになったロートルのボクサーが必死の努力と訓練を重ね、千載一遇のチャンスをものにし、友人や師匠の助力を受けながら、チャンピオンと試合して勝利を納める」という、まさに
友情・努力・勝利なストーリーだと思い込んでいたため、ちょうど、腐れ切った今の自分の気分とマッチするのではないかと見始めたのだが、観るとまったく印象が違う(笑)。
わかりやすい違いは、たとえばロッキーはアポロ・クリード(ヘビー級のチャンピオン)に勝つのではなく、惜しくも判定で負けるってところなのだが、それ以上にショックだったのが、ロッキーの特訓への態度である。人から止められるまでタバコすら吸っているし、なんというか普通、チャンピオンにいきなりさえないボクサーが勝つなり、いい試合までいくためには、何かスペシャルな訓練なり、アドバイス、悟りがあると思うのが当然だろう。が、本当にびっくりするほど大したことしてない。
試合まではたったの五週間。それなのに、ロッキーがやったことと言えば「止められたのでタバコを止めた」「彼女のエイドリアンとのセックスは試合終了までお預け」「毎日走ってる」「毎日生卵を5個ずつ丸呑みしてる」「精肉工場の吊り下がった肉を叩いて回る」程度のもの。有名なフィラデルフィア美術館の正面玄関の階段を駆け上がるシーンはあるが(
ロッキー階段と呼ばれているらしい)、五週間程度、階段駆け上がったり死んでる肉を叩いたくらいでチャンピオンと善戦できたら苦労はないだろう。ボクシングなめてんのか。
名セコンドなり名マネージャーがついて、少なくとも
ベストキッドの「ワックス拭き取る」みたいな、ああいう一見何の役に立つんだ?と思うが実際には効果抜群の不思議な特訓くらいはあるのかと思ったが、それもなし。ミッキーという所属ジムのコーチは「お前にはマネージャーが必要だ」と言い、それまではロッキーを嫌っていたくせに、ロッキーのマネージャーになる。が、このコーチもろくなアドバイスをしない。そもそも特訓中はまったく出てこないし、試合中は「アバラを狙え。息をさせるな」という「アドバイス」をしたくらいで、あとは倒れたロッキーに「起き上がるな」と言っただけ。アバラ狙えくらいのアドバイスなら素人だってできそうだし、「立て、立つんだ、ロッキー!!」ならまだわからんでもないが「そのままもう起き上がるな」って、試合中にまだやれるロッキーの闘志を消すような発言してどうする。マネージャーであるミッキーの貢献が全然ピンとこないのである。
そんな感じだから、ロッキーが試合前に「自分はチャンピオンには勝てない。それでも最後のラウンドまで立っていてやる」と言うのを聞いても視聴者としては「そりゃそうだ」としか思わない。これでロッキーが勝ったらどっちらけだ。唯一の勝因はロッキーが
サウスポーだってことくらいだろう。
試合で勝利/善戦する点もそうだが、この映画、全体を通じてどうにもゴールにいたるまでのロジックが弱いというか、ほとんどロジックが存在しない。
たとえばエイドリアンとのロマンス。ロッキーはエイドリアンというペットショップに勤めている女性を好きになり、下手な冗談を言って近寄ろうとする。洗練されていないスカンピンのボクサーがしつこく言い寄ってるだけなので、もう完全にウザがられている状態だったのが、なぜかエイドリアンの兄ポーリーの勧めでほぼ無理矢理感謝祭の日にデートをし、アイススケートを10分滑ってごはんを食べ、ロッキーの部屋に入っただけで、メイクラブ。
また、ジムのコーチであるミッキーは「お前には経験豊富なマネージャーが必要だ」と言うのだが、それまで何年間もさんざロッキーを嫌っていたため、ロッキーもこれにはブチ切れ、今更何を言うふざけるなと大声で罵倒する。が、失意とともに去っていくミッキーに、最後はロッキーが走って追いかけていき、どうやらマネージャーをお願いしたみたいなのだ(このシーンは遠方からで二人の話し声は聞こえない)。
どちらも観ていて思うのは「間に何があった」である。「なぜそうなったのか」がほぼ皆無。とにかくそうなったと。
普通こうなると、映画を観ながら「なんでやねん」となるのだが、しかし妙な説得力があるというか、「ロッキーってそういうやつなのだ」というよくわからん曖昧な「同意」があるために、割と無理なく観ていられるというか、逆に変な説得力が生まれている。人間理屈だけで動いてはいない。なんかある日のふとしたきっかけで男女は別れたり一生の付き合いがはじまったりするし、何年もの師弟の確執が一瞬にして氷解したりするものなのである。
前半たっぷり時間を使って、ロッキーはどういうやつかという描写に充てているため、「理由の空白」が発生しても、説得力がなくなるというより「とにかくロッキーはそういうやつなのだ」と飲み込めてしまう。そう、ロッキーは多くを語らない。けれども、借金の取り立て人になっても、命令されても債務者の指を折ったりは決してしないやつなのだ、ロッキーは! 貧しいけれどペットに二匹の亀を飼ってるんだよ、ロッキーは! そうなると「理由の空白」は逆に想像力をかきたてる余白のように働く。視聴者は各自が好きなように「ロッキーがミッキーに何と言ったか」とか「エイドリアンはなぜロッキーを受け入れたのか」を想像して楽しむのである。
そんなロジック皆無のロッキーだが、しかしなんでこれがそんなにウケたのか。思うに「敵が黒人。主人公は(イタリア系移民の)白人」ってのが大きかったんじゃないかと。
チャンピオン側の黒人は、みなが非常にリッチだし、ビジネスマインドも持っている。それに「挑戦者を受け入れてやろうじゃないか。善意の心で!」「アメリカンドリームってわけだ」「建国200周年のイベントとしてウケるぞー」って態度だ。試合に登場するときはなんとワシントンのコスプレまでし、ワシントンの故事にならって観客にお金をバラまいたりもする。
対するロッキーサイドと言えば。そのリングネームは「イタリアの種馬」。彼女のエイドリアンはペットショップに、その兄のポーリーは精肉工場勤務している。お気づきの通り、非常に「動物づいている」のである。
元奴隷だった黒人は羽振りがよくなっているが、白人とは言え、移民は生活苦でつきたくもない仕事に就いている。そんな白人が、ナメくさった黒人と戦い一泡ふかせる。そこにもカタルシスがあったのではないかと思った。
細かいけれど、エイドリアンがロッキーの部屋に入るとき、エイドリアンが怖くないようにロッキーがドアを少し開けるのがいい。そしてエイドリアンは自分が入ったあとそのドアを閉めるのがいい。