すずめの戸締まり
とにかく絵に力が感じられない。そう思うのは気のせいだろうか。これまでの
新海誠作品なら「キモい!」「しょーもなすぎる」などと、そのこっ恥ずかしいセリフや、くだらないストーリーに悪態つきながらも、絵自体はなんだかんだで楽しんでいた気がする。「結局絵がキレイなだけじゃん!」。しかしそれが深海誠だった。そう思っていたのだけど、本作を観ているとそんな悪態をつく気も失せるというか。確かに深海誠らしい「光」の表現はあるのだが、まるであとから「深海誠フィルター」をかけただけのように感じられるというか。
単に見るこちら側がその表現に「飽きた」だけなのかもしれない。が、どうも全体的に細部が弱い。
モブの顔も適当だもん。「鈴芽がなんとかしないと地震でたくさんの人が死ぬ!」というストーリーなのだから、ここでモブがきちんと描けてるかどうかって単に絵の問題なのではなく、話の説得力にも関わる非常に大事なポイントだと思うのだが。
絵については「気がする」レベルの確度しかないので、今度、深海の過去作ももう一度見直してみるとして、問題は「地理」だ。
この
映画、話の筋としては、高校生の岩戸鈴芽と先祖代々「閉じ師」をしている大学生の宗像草太が、草太にかけられた呪いを解くため、また「後ろ戸」を閉じ「ミミズ」を封じて日本を地震から守るために各地を旅して回るという、それだけっちゃだけのお話なのだが、その地域の扱いが雑なのだ。冒頭、ニュースシーンや方言、背景に映り込んだ情報から、鈴芽が現在住んでいるのは
宮崎県だということがわかる。その後、草太に呪いをかけた「ダイジン」という猫を追って、二人は
フェリーに飛び乗り愛媛へと向かう……って、宮崎から愛媛に行くフェリーなんてあったっけ?
大分県なら三崎港までフェリーが出ているが......。
この時点でだいぶ引っかかったのだが、許せなかったのは
愛媛に渡ってからである。草太は言う。「橋を渡った先は
神戸だ」。まあ確かにダイジンが渡っている橋は「
明石海峡大橋」なのでそこを渡ったら神戸なのだが、今、お前がいるのは愛媛だ。愛媛と神戸の間には
香川も
徳島も
淡路島もあるぞ。草太は
祝詞を読みながら「後ろ戸」を閉じるようなキャラクターなんだろ。淡路島。国生み神話の島である。飛ばさないでくれ。
まあ、それは四国は徳島に住むこちらの単なる願望、私怨なので「はいはい」って話なのだが、「地震を止めるために後ろ戸を閉じる」旅で宮崎から愛媛に移動する間にある「あれ」がこの作品ではすっぽり抜けている。そう、
伊方原発である。
本作の世界では地震は地盤のひずみによってではなく「後ろ戸」から「みみず」が飛び出すことで発生することになっている。少なくとも我々が住むこの日本という国では。この非常にナイーブな無意識の
ナショナリズムもさすがに気になるが、問題はそれだけではない。これはつまり、地震という天災は「閉じ師」の活躍と「要石」を所定の場所に置くことで人為的に制御可能、
アンダーコントロールなものだということである。当然原発も問題になどならない。閉じ師がしっかり仕事してくれれば。
そう、表向きは「閉じ師」の草太があちこちを回って、我々無辜の民のために地震が発生しないように身をていして戦ってくれているし、地方のことを常に気にかけてくれている。なんなら、作品の中で、愛媛のみかんやパーキングエリアのラーメンも映るし、
ロケハンで映ったその場所が
聖地にだってなるわけで、この作品自体が地方のことをとにかく気にかけてくれている、地方にメリットをもたらそうという意図のもと制作されているようにも見える。が、他方で原発のような、中心が周縁に押し付けている現在進行形の「めんどくさいもの」はハナから画面に映らない。「閉じ師」だ「ミミズ」だ「要石」だ「後ろ戸」だというよくわからない世界観で、
社会を消去した現実に書き換える。要するに「知ったこっちゃない」のである。
だから、各地の景色が深海誠のあのきれいなアニメーションでどれだけ描かれていても、どこか空々しい。「ロケハン費用は全部経費で落ちるし
Win-Winなんだろうな」なんてことすらこちらも頭に浮かんでしまう。白けるのである。
宮崎県に住んでいる鈴芽だが、実は出身は東北であり、
東日本大震災の被災者でもある。実の母親もその時の震災が原因で亡くしている。後半は鈴芽が生まれ故郷の東北に向かう旅になるのだが、ここでも原発の話は一切出てこない。鈴芽は何の問題もなく、生家の跡地に戻り、そこから「後ろ戸」を開き、「常世(とこよ)」へと足を踏み入れる。そして「お母さんどこ??」と泣き叫ぶ四歳児だった過去の自分に出会い抱きしめて言うのだ。
「あのね鈴芽。いまはどんなに悲しくてもね。鈴芽はこの先ちゃんと大きくなるの。だから心配しないで。未来なんて怖くない!あなたはこれからも誰かを大好きになるしあなたを大好きになってくれる誰かともたくさん出会う。いまはまっ暗闇に思えるかもしれないけれどいつか必ず朝が来る」。
って、これが母を亡くしたばかりの四歳児に言うセリフだろうか......。