定本湛然居士文集譚
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耶律楚材
1190年7月24日 (なんの日のメモかわからなくなった)
飯田利行
A
湛然居士 耶律楚材
湛然居士巻九
「唐朝は太平が久しくつづいたが、民間に埋れている賢人は、逃げかくれもしなかった。」
「多くのえびすが来朝して国のまもりに就き、百済が観光させてほしいと願い出るほどである。」
湛然居士巻十二 高善長
「君は本来 瀋陽の人である。」湛然居士文集巻十二 高善長
瀋陽 東丹王が都した遼寧省瀋陽県
燕然 燕京
金台坊
春秋三伝
左邱明
詩経
書経
易学
史学
丘処機
伏羲 ふっき
「かくて高先生は、医者に身をやつし、仕官をやめ古代の帝王伏羲の功業を敬慕することとなる。」湛然居士巻十二 高善長
「医書の「難経」・「素問」なども、その奥深い理論に精通し、針と石ばりの術では、死んで白くかたまった蚕ですら生きかえらすほどとなった。」湛然居士巻十二 高善長
針と石ばりの術 針砭 金属の細い鍼(はり)と石鍼(いしばり)。また、それを用いた医術。鍼(コトバンク)
「その点、後漢の華陀や名医扁鵲の事績と肩をならべるほどとなり、和やかな人柄では、評判ある賢人とも同列に評価されることができた。高先生の門下生はみな良医ばかり、その高名ぶりは市域にも評判になっていた。」湛然居士巻十二 高善長
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敦煌
「君は初め河南省を流れる洛水とてん水をわたっていたとき、私は、すでに甘粛省の敦煌に達していた。」湛然居士巻十二 高善長
てん水(漢字が出せない、簡体字ではわからない)
瀚海 ゴビ
「瀚海の砂漠の砂塵は、早瀬がほとばしるさまに似て行路にまどい、やがてアルタイ山脈の難路にさまよう身となる。」湛然居士巻十二 高善長
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西域地方
「西域地方はほんによろしい民風土俗である。」
「そこで川を切りひらいて水を田園に灌漑してやる。その結果、豊かに実らない歳はないようになった。」湛然居士巻十二 高善長
「あちこちで、飢え死にする人などなく、四方の郊外でも、ありあまらうほどの食糧を持って棲んでいる。」湛然居士巻十二 高善長
「早朝から晩秋にかけての河中府は、浙江省の余杭に似ている。」湛然居士巻十二 高善長
河中府 サマルカンド
「歌姫には回紇人が多く、白い衣装づくめできらきらとまばゆいばかり」湛然居士巻十二 高善長
穴あきの銭はなく、穀物を量目ではかり売りしている。甘瓜は馬の首のようであり、大きいものは狐もかくれるほど」湛然居士文集巻十二 高善長
回紇 ウイグル
「この地に一たび住みついてから十年あまりとなるが、仮の地だとか、故郷を持つ身であるとか、そういった差別観など全然なくなってしまった。」湛然居士巻十二 高善長
具体的な薬の話のあと
「病も同じこと、病気にかからない前にかならず予防を講じておくべきである。」」湛然居士巻十二 高善長
「賊臣が、主君をあやめるといったぐあいに、災難は、内わから発生するものである。これを弁別察知することは、どんなに早くても早すぎるこということはない。つまり少しずつ進ませると堅い霜のようになってしまうからである。」P629
「一番大事な病気(忠誠)は、なかなか治しにくいものであって、今からのちますます治る見込みがなくなってゆく。湛然は、以上のような病気の話を高君からお聞きして、おもわず背に寄りかかりうる腰かけをおこして、きちんとかけたのである。」湛然 P630
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あと
香方偈(次の詩)
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「偉大なチンギス汗は、天上界へ上って仙人となり、オゴタイは、現に政所に登って政治をとっておられる。」湛然居士文集巻十二 高善長
「河南で金との盟約をとりやめた
ふ、や秦(陝西省)が戦場となった
大行山
斜谷
?国が
べん?
金城湯池の城」湛然居士文集巻十二 高善長
「そもそも医術は天下を治める政道にかかわりがあり、両者はもとより一つの道理にすぎないという。」湛然居士文集巻十二 高善長
「公表するには、裏話をあばくようなことをしてはいけない。内をちゃんとするには、外面を傷つけるようなことをしてはいけない。朝廷に内紛が起こっているのに、どうして辺境を震撼させる必要があろうか。」湛然居士文集巻十二 高善長
「政令がきびしいと、人民は悲しみやつれ、政治がだらしなくなれば、わるものがはびこる。」湛然居士文集巻十二 高善長
「私は、以上のような病気の話を高君からお聞きして(略 おもわず姿勢を正した)」
「ここに教えさとしの言葉を贈る。「良薬は口ににがし」と。」
「私は、君に一つの医事について問うたところ、二つの宝物を得た」
湛然居士文集巻十二 高善長
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「はるか遠くにある地でこのようなことを耳にした。金城の学校では糧食がつきてしまったと。そこで粟百斗を贈り、粗末な食事の一助にもなるようにと応援した。あらためてつまらぬ詩を詠み、当地の学士や教養人たちをはげます」金城の士大夫に寄す 湛然居士巻十二
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「余かたじけなくも萬松老師に侍し、あやまりて子の印を受く」」湛然居士巻十三
高善長の詩の中国語文。
xī fāng hào fēng tǔ 西方好風土 シーファン ハオ フェンツー
この一偈だけでも確認できれば。。中医的だわ。。。
高善長
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「1220年太祖15年に、成吉思汗の西征となり、西域のサマルカンドに駐輦します。」定本湛然居士文集譚 P431
「皇帝の御心は、天が民の運命をひらくことにありましょう。」定本湛然居士文集譚 P432
「それは日と月とがぴったりとし、五つの惑星が珠をつらね、同じく虚宿五度に会する現象を示しているのであります。」定本湛然居士文集譚 P433
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>@lib2015blog: 「それは日と月とがぴったりとし、五つの惑星が珠をつらね、同じく虚宿五度に会する現象を示しているのであります。」定本湛然居士文集譚 P433
「また西域と中原とは、地理が遠くて殊なるので、里差をつくり立ててこれを増減しました。ために東西数万里の差異がありましても、二度とは誤差が生じなくなりました。」定本湛然居士文集譚 P433
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「高麗の使に和す 三首
神武なすあり もとより不殺、寛仁つねにはづ」定本湛然居士文集譚 P368
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皇帝の御心は、天が民の運命をひらくことにありましょう
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湛然居士集 たんねんこじしゅう
zhàn rán jū shì jí
領中書省湛然居士文集序
lǐng zhōng shū shěng zhànránjūshì wén jí xù
士君子国而後學、老乃思歸、
shì jūnzi guó ér hòu xiáo lǎo nǎi sī guī
士君子 くるしみてのちまなぶ。老いては すなわち歸らんと思う、(飯田利行禅師訳)
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法語を兄の子淑卿に垂れ示す
摩訶迦葉にどうして正法眼蔵涅槃妙心(おさとり)が授けられたことであろうかというのであった
湛然居士文集譚 P700
釈迦牟尼は四十九年間、縦横自在に説法され、貝葉に記された大蔵経の美しい文章も世間に広く普及されている。最後に霊鷲山上の説法で拈華微笑したことは、教外別伝・不立文字の趣旨を伝えたものである。
湛然居士文集譚 P701
私は今、そなたのためにいささかの所見を「父母未生前」の公案について述べてみよう
湛然居士文集譚 P702
李邦瑞の韻を用う
静まりかえったバイカル湖のあたりには、雪の深い連峰が見える。
湛然居士文集譚 P335
バイカル湖 北海
スケート
湛然居士文集譚 P194
百丈懐海
。。。無門関だわ
大食国 たーじーこく
サラセン、今のペルシヤ、メソポタミヤ、アラビヤ、エジプトを領有した大国
湛然居士文集譚 P470
居士は、才能が少く学問もまだ浅い。けれども静かに思うことがいつも中正のこころにかなっているので、その点、どちらかといえばはじないですむ。
湛然居士文集譚 P195 其の六
。。。これが中捨だろう
中捨
だが、今や様相は一変した。そして東西米ソ間の核ミサイル競争は、宇宙戦争へ直結する兆を呈してきた。この予感が的中すれば、世界は必ず破滅する。これを未然に防ぎうるものは何か。
しかるに我が東洋史・日本史・仏教史・文学史・辞典・年表は、かかる史実を全く歪めて伝えている。これは厳然たる史実の冒涜である。
湛然居士文集譚 総序 沙門利行 昭和六十年 1985年
序
それ文章は天下の公なり
夫文章天下之公
fū wén zhāng tiān xià zhī gōng
序
定本 湛然居士文集譚 巻一
黄華老人 獻陵の呉氏への成趣園に題せるの詩に和す
和黄华老人题献陵吴氏成趣园诗
献陵 河北省昌平県
陶明 陶淵明
星斗 ほし
あぁ、なんたることぞ。世の中の名利にふりまわされている人たちは。いったい一度だって陶淵明の清節を思ったことがあったろうか。それとも憶うことすらできないのだろうか。
P44
和平阳王仲祥韵
平陽の王仲祥の韻に和す
平陽 山西省大同市
仲祥 ちゅうしょう 金朝の元老 王璘氷厳老人と号す
平水 山西省平陽府
和李世荣韵
李世栄の韻に和す
松菊 sōng jú
広大なおもいやりは万国にゆきわたる
我が国法にそむくものなく、世界中
天の応報は、千年もすれば人間にめぐってきて、天の与える功は万世にまで行きわたって盛んとなる。
多くのすぐれた人材をみな登用すれば、あまたの国民は、生活をそこない、いためつけられることがなくなるであろう。
P47
和李世荣见寄
李世栄の寄せらるるに和す
雲がバイカル湖の西に横たわるとき、駅馬が天の果てよりやってきた。
雲がバイカル湖の西に横たわるとき、
雲横北海西、、
yún héng běi hǎi xī
唐の魏徴が上奏した世直し十箇条の書をよくつらねて示し、六つの奇計などを謀ってはならないと思う。
さて、いまの私は、和林城の行宮に入っておるが、
魏徴
P49
和李世荣韵
李世栄の韻に和す
多謝梅軒不惜春
多謝す 梅軒 春を惜しまず
duoxie 多谢
不惜春 buxichun
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ウズベキスタン 河中府
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西域河中十詠
河中府はひっそりとしている。この地の人民は、たびたびの戦災をこうむっている。
ただしそのお酒を求めるお金が乏しいので、果たして老いの生涯を送れるかどうかあやぶまれる。ただ幸いなことに、詩を作る心が、いつも私に音もしていることでもある。
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キリスト教、イスラム教の恵沢を逸早く蒙っていた地中海沿岸諸国。
産業革命以後漸くのこと神からの隷属を脱し、人間存在の真価に目覚め始めたゲルマン諸国。
彼らは自らを文明人と意識していたが、自分達より以前に人類のあるべき尊厳性を謳歌していた連邦共和国以東の存在に気付き始めた
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これより先き中近東諸国では、十三世紀のローマ法王諸侯を始めイスラム圏内の人々が、誰いうとなく「東方に神人あり」と言い触らし、ついにプレスター・ジョン伝説の醸成流布となる
ムハンマド・ルーミーていう回教の教理学者伝道師がサマルカンドにいたそうだった。
教理の飛躍と再生を決定づけた回天の大偉業であった。奇しくも漢字圏内では、イスラム教を回回と音写した。
回回の漢字が回回敎の大展開を宿命づける箴言となったともいえる。