generated at
現存在の「本質」は実存に存する
ハイデガーの主著『存在と時間』に出てくる命題。

これは、次のような意味だろう久住哲
現存在が「現存在である」ということは、現存在が実存するということだ。
ここで前提されている発想は、あるものがそのもの自身であるという考え方かな?

次のような意味ではない:
現存在は、「現実に存在する」ということを本質としている。すなわち、他のものは何か本質的特質のようなものを持ってはじめてそれ自身であるが、現存在だけは、そういった本質的特質なしに、ただそれが存在するというだけで、現存在としてあることができるのだ。

久住哲の形式的な解釈:
現存在はドイツ語でDaseinであり、これはDaとSeinの合体である(とハイデガーは見ているし、ドイツ語の文法的にもそうである)。
この言葉を動詞的に使うと、Das Dasein ist da. と言うことができる。
この「ist da」を「existiert」と言い換えても何も変わらない……ということ、これが、上の命題の述べていることだろうと思う(? 久住哲
「外に-立ってある」ってことがex-istってことだろうから、其処(da)を「持つ」ということは「空け開き」においてあるということだから間違いとは言いにくいけれども、「言い換えても何も変わらないってことを述べている」とはならんだろうなと思います。


現存在は、簡単に言うと人間のこと。
しかし、簡単に人間と言わない……というところに意味がある?
『存在と時間』より後の時代には、ハイデガーは「人間」という語を使っている。
ただし、「現存在」という言葉が使われなくなったわけではなく、大事なところ(どこ?)でこの言葉が出てくる。

ハイデガーは、『「ヒューマニズム」について』で、この命題の「本質」という部分について、「この括弧を読者は無視しがちだ」といったことを述べている。