折伏禁止考
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思想哲学文学芸術の会では「
折伏禁止」とされている。いったい「
折伏」とは何だろうか。なぜ折伏が禁止されているのか。このページでは、折伏禁止という規則について考える
原文
まず、「折伏禁止」が明記されている箇所を確認してみよう。Discord本部のBACKYARDカテゴリにある
「banについて」chというチャンネルにそのことは記されてある。
折伏禁止は、「
差を尊ぶ」という基本原則についての説明のなかで出てくる。
差を尊ぶ
差を尊ぶとは、相手と自分との思想の差を自覚し、その差を尊重するということ、その差を広げるようなギスギスとした
敵対をせず、その差を無理に近づけるような強引な説得もせず、
距離を保とうとすることだと解釈する。
では議論不可なのか
――じゃあ、思想哲学文学芸術の会(アープラ)では議論できないということなのか?だって、相手の間違った意見や結論を批判して、相手の考えを正しいものへと近づけることこそが、議論の目的ではないか。
それを禁ずるだなんて。
思想哲学文学芸術の会では他の場所と同じような仕方では議論ができない……そうであるかもしれない。すなわち、思想哲学文学芸術の会から議論を追い出しても、思想哲学文学芸術の会は思想哲学文学芸術の会のままであるかもしれない。
折伏禁止という方針は、アープラを「
対話の場」として位置づけることに通ずる。
――では、私達は私達の間にある差をキープし続けて、互いに近づくことを完全に諦めてしまえばいいのか?差を尊び、違いを保ち、そうして私達はずっと交わらない平行線のままでいつづけろというのか?
……いや、そうではないだろう。そのような「
相互理解の諦め」は、上に引用した対話の理念と矛盾するものだ。
私は私のまま、あなたはあなたのままでいつづけながらも、「わたしたち」の意見を形成することは可能なのでないかと、そうした批判に対しては言いたい。「
相互理解」とはいったい何だろうか。それは相手のことをよく知り、相手により自分のことを知られることだろうか。それは結構なことだと思うが、そういう結果をもたらすために私達はどうすればいいというのだろうか?わたしたちは、
妥協点を創造すればいい。妥協点において合意するというゴールを定めればいい。もちろん、そのゴール地点に立った瞬間、わたしたちはまた対立するだろう。なぜなら、世界はその妥協点で尽きるものではないからだ。その妥協点において意見を一致させたあとでも、その瞬間においてすら、わたしたちは互いに離れている。妥協とはそういうものだ。妥協したからといって、わたしたちのどちらか(或いはどちらも)が変化したわけではないからだ。
2021/10/11