generated at
失敗から復帰する方法は共有されづらい
現代は高度情報化社会と言われている。
Googleで適切な検索語句を入れれば大体の情報は出てくるし、その確度はともかくとして、知りたいことは知れる世界になっている。
しかし、「成功」「失敗」の観点から行くと、「失敗」の情報は取り入れづらいように思う。

例えば、何か事業を考えついて、起業したいと思ったとする。「起業 やり方」などとググれば起業の仕方は出てくる。ビジネスコンテストや、ベンチャー支援機関などの情報も出てくるだろう。
しかし、そこに「失敗した時どうなるか」という情報はあまり含まれないように思う。
起業を失敗して借金まみれです!ということを表立って発信しようという人はあまり居ない。また、居たとしてもまた別の成功を収めている人である可能性が高い。
「起業に失敗して借金まみれだけど、どうにか借金を返して普通の会社員として生活しています」といった情報は、多分ないんじゃないだろうか。

こういったリカバリー方法が共有されづらいのには、いくつか理由があると思う。
自身の失敗を話したがる人はいない
失敗から得た経験は得難く、価値がありすぎる
自身の人生を使い、得るのに労力を使ったので、気軽に共有したくない
成功と比べ、「引き」が弱い
コンテンツとして、簡単な集客が見込めない
上記のような理由から、失敗から復帰するための方法は共有されづらい傾向にある。

若いうちの苦労は買ってでもしろ、というのは、「失敗」が許されるうちに失敗し、復帰方法を収集しろ、ということだと解釈している。
失敗からリカバリーする方法がいくつも自分の中にあれば、失敗を恐れなくて済むし、人間としても良く在れる直感がある。

ただ、僕はこれに懐疑的である。「わざわざ自分の人生をそれに使う必要があるか?」と思うのだ。
これは他人の人生を利用したい、誰かに使って貰いたいという話ではない。
「巨人の肩に乗る」というようなイメージの話だ。

学問においては、歴史を振り返ると様々な偉人が成功と失敗を繰り返してきた。
それによって僕らの世界は動かされ、そして成り立っている。
学問の世界に飛び込めば、新規研究をしようとすれば先人の研究結果や知識を活かすのは当たり前であり、また、自身の研究結果が後発の研究者に活かされるのも当たり前である。
この、先発の研究結果や知識の蓄積を使わせて貰うことを、彼らに敬意を評して「巨人の肩の上に乗る」と言うことがある。巨人の肩の上に乗ったからこそ、僕らはこれほど遠くを見渡せるのだと。

この情報が氾濫する世界において、「人生」ではそれが出来ないのだろうか。学問では学び活かすことが出来るのに、人生では学び活かすよりも、まるではじめからやり直すような感覚がある。
勿論、人生は人それぞれであり、キャリアだって人それぞれだ。全員に言えるような知識というのは無いのかもしれない。
けれど、辿ろうとしている人生に似た人生を歩んでる人は一人以上居るはずだ。今人が出来る仕事の種類はそう多くないだろう。少なくとも80億以上であるはずはない。
であれば、「人生学」とも言うべき、人の辿った形跡や蓄積したノウハウ、失敗から復帰する方法を含めた知識は、ある程度体系立てて纏められるのではないだろうか。
たとえ近い将来発明や技術によって具体的方法論が無価値になったとしても、復帰の方法は価値が残るような気がしている。

この情報化社会において、特にデジタルネイティブと言われる若者たちは、極端に失敗を恐れている。
「成功する方法」を調べ、上手くいくやり方を実践し、正解を導く。そうやって生きてきたからだ。
僕はこの、怯えのようなものに対して、「失敗した後どうするか」という知識は特効薬になりえると思う。
近頃の若者はチャレンジング精神がない、と言われると、じゃあチャレンジ出来る土台をくれよ、と思ってしまう。
勿論、これは貴重で価値のある知識だから、おいそれと共有出来ないのはわかりきっているけれど……
それでも、学問のようにまとめることで、誰かの救いになりやしないだろうか、と思っている。

(このような考えから、何かを人に挑戦して欲しい、やって欲しいと思うときには、失敗してもいいということ、失敗したらこうしてほしいということを伝えておくのが大事だな、と思う。
これは心理的安全性にもつながるのではないかなぁと思っている。)