何かを選択する時
選択時に生じる問題点とそれに対する態度
何かを
選択する時、必ず良い方を選ぼうとするだろう。そのために考える、思考、論理を使う。ここで問題点が二つ出る。
一つに、論理は脳の原理なので、それが現実にはまっているとは限らないという点、もう一つに、現実は複雑なので全てを思考し尽くすことは、人間には不可能であるという点。これに対して取れる態度は二つある。一つは、この限界を認識したうえで、暫定的なものとしてでも判断を決めるということ。時間は永遠にあるわけではないので、永遠に悩んでいるわけにはいかないから、完全な答えでなくとも判断を下して進むということである。もう一つは、その限界を認識せずに、自分で考えたことがそうであると思い込んで進むということである。一般的にはこういう人は多いのではなかろうか。前者の態度、つまり自分の思考の限界を考えるというのは、多少とも哲学なりなんなりを勉強して始めて養われることだろうから(もしくは元々そういう傾向を持っている人が哲学を勉強する傾向が高いというのもあるかもしれない)。誰でもが普通に考えることではないだろう。
判断と確信
ここで考えてみたいことがある。それは判断に確信は必要だろうかということである。自分の考えたことがそのまま現実にはまっていると考える人は、ここは問題にならず当然自分の判断に確信が伴う。一方、自分の思考の限界を考える人は確信が持ちづらい。確信が持ちづらいということは、判断ができづらい、先延ばしにしてしまう傾向を持つということである。自分がある程度考えたとしても、それを疑ったり、その先があるのでないかと考えるからである。やはり、判断と確信というのは密接に連携しているだろうと思う。
判断と確信のズレ
ただここで厄介なのは、判断というのは客観的なことがらであり(少なくともそういう体である)、確信というのは主観的なことがらであることである。つまり、人が判断を下そうとするとき、少なくとも当人は客観的に正しい事、いい事はなんなのだろうかという方向で探求を行う。最初から主観を求めて判断をしようとすることはないだろう。結果的にそうなることはあったとしても。
客観を見ようとする意識が強い
自分の思考の限界を考える人は、客観(対象)を見ようとする意識が強いのだろう。対象を厳密に見ようとしたとき、まだ自分の思考が至っていない、パズルのピースがはまっていないということに気づくからである。だから同時に自分の思考の限界に気付いてしまう。そしてそのはまっていないピースが考えてわかることなのかどうなのかという問題がある。そもそもわからない、もしくはわかるのにとても時間がかかる場合がある。だが、判断は今下さないといけない、しかし確信は持てない、曖昧な所が見えているからである。思考の限界を考える人は、このようなジレンマに陥るだろう。
考えられる部分と考えられない部分の線引き
この一歩先に行ってみるとすると、自分の考えられる部分と考えられない部分を線引きするのである。考えられる部分は徹底的に考える、それを考えたならば、完璧な見通しが立たないことを受け入れてそこで判断を下すのである。だがこれは現実には難しい所も出てくるだろう。何が考えられる部分で、何が考えられない部分かの判断を下さないといけないからである。つまり、判断を下すための判断が必要になる。ここに判断の無限循環が生じてしまう。現実的には、きっちりと線引きすることは難しいため、ここも考えられるんじゃないかとまた判断を先延ばしにしてしまう。
客観が判断を下す
だがここまでの話はある前提があり、それは「客観が判断を下す」という態度である。つまり、判断する対象を精査した結果そこに答えがあるという態度である。この態度を前提としている以上、対象に不明な点があれば判断を下すことはできないということになってしまう。
直感と蓋然性
これと関連しているのだが、もう一つの前提として、「完全な見通しを求める」という態度である。この態度を前提としている以上、完全な見通しが立たない限り判断は下せないということになってしまう。しかし、現実的なことがらに対して、完全な見通しをつけるというのはどだい無理な話である。そうなると、そこで求められる態度は「蓋然性」や「直感」などが必要になってくる。「こうなる確率が高いだろう」とか「なんとなくこちらが正解なような気がする」といった態度である。有能な経営者や昔の戦国武将など、つまり決断が常に求められる立場にあり、比較的良い決断を繰り返しているであろう人間は、結局ここの能力が高いのではないかと考えている。ここまできて考えるべき問題は、考えるタイプの人間が、選択においてどのように確信を持つべきかということと確信を持たずして判断することは可能かという二つの問題である。