主体の意味づけ/ 存在
最近自分が読む複数の本で、ある考え方がしばしば出てくる。それは「本来無分節的である世界に対して、
主体が意味付け(分節)を行うことで存在(者)──ひいては普通の意味での(日常)世界──が成立する」というもの。
例えば
『嘔吐』であれば、次の描写はそのことを示しているように思われる
> 私は正真正銘のパニックに襲われた。(中略)私は激しい不安にかられて繰り返し自分に問うた、どこへ行くべきか、どこへ行くべきか、と。どんなことでも起こり得る。ときどき私は、胸をどきつかせながら、ぱっと後ろを振り向いた。背後で何が起こっているだろう?たぶん、それは私の後ろで始まるのだろうし、とつぜん振り返っても、もはや遅すぎるだろう。しかし私が物をじっと見つめることができるかぎりは、何も発生しないだろう。だから私はできる限り多くの物を眺めた。敷石を、家々を、ガス灯を。私の目は、変身途中のそれらの不意を襲って、変身を停止させようと、一つの物から別な物へと素早く移動した。それらの物はあまり自然な様子ではなかったが、私は力をこめて自分にこう言いきかせた、これはガス灯だぞ、これは給水栓だぞ、と。そして自分の視線の力で、それらの物を日常的な姿に戻そうとつとめた。(JP・サルトル. 嘔吐 新訳 (Japanese Edition) (p.141). Kindle 版. )
ロカンタンは、普段(無意識的に)行っていた周囲に対する意味付けが崩壊し、無分節的な世界(事物)に直面しそうになり、パニックに陥る。そこでロカンタンは意識的に「これはガス灯だぞ、これは給水栓だぞ」と意味付けを行うことで「日常的な姿に戻そうとつとめ」る。
以上の考え方は「主体の意味付けが変われば全く異なる世界が出現する」ことを示唆するように思われる
「主体の意味付けによって存在が成立する」ということを示すような事例はいくつかある。「妻と義母」の絵、「L」と「R」の音、文字──単なる「インクの染み」が意味を持ったものとして現れてくるというのは主体の意味付けがあってこそと考えるほかない
逆に言えば、ある文字がちゃんと意味を持ったものとして現れてくるということは、その文字が単なる「インクの染み」であることを見えさせなくすること、隠蔽することだ。これが「空無化」と呼ばれることなのだろうか?
「妻」が見えるようになるということは「義母」が見えなくなるということ
※ 人に対するキャラ付けもこの「意味づけ」の延長だろう
ある人を〇〇キャラとしてみなすのも、この物体を机としてみなすのも同じ作用だろうか。固定化し安心するという機能はあるか?「解釈違い」と「吐き気」に関連性はあるのか?
では目の前の机はどうか。机を文字のように見れるか?──確かに机を知らない人が見ればそれは単なる物体以上のものではないかもしれない、あるいは私がそれを「座るため」のものとしてのみ利用していたらそれは「椅子」かもしれない
> 老博士は、自身が蝕まれていった、ある「恐ろしい病」について語る。彼は、文字のゲシュタルト崩壊を体験して以来、それと同じような現象を文字以外のあらゆるものについても体験するようになった。たとえば、家をじっと見ていると、木材と石と煉瓦と漆喰との意味もない集合に化けてしまい、これがどうして人間の住む所でなければならないのか分からなくなる。人間の身体も、意味のない奇怪な形をした部分の集合に見えてくる。同様に、他のあらゆる物、日常の営み、すべての習慣が、いままでの意味を全く失い、もはや、人間の生活のすべての根底が疑わしいものに見えてしまう。
> (古田徹也. 言葉の魂の哲学 (Japanese Edition) (p.29). Kindle 版.)
将棋用品が全くない時に将棋がしたいと思い、手持ちの文房具を用いることにしたとする。適当な消しゴムを「桂馬」として見立てそのゲームにおいて使う時、桂馬の存在が成立する。そしてそのゲームが終了すれば、「桂馬」の存在は消滅する。
ところで、日常において私たちは常に何らかのゲームを行なっていて、上の桂馬のように周囲の事物を眺めている?
> 「語とは本当は何なのか?」という問いは、「チェスの駒とは何か?」という問いに似ている。(『哲学探究』108)