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アニメに見る物語を駆動させる要素
まずアンパンマン鬼滅の刃がわかりやすい。アンパンマンではバイキンマン、鬼滅の刃では鬼、これは典型的な「悪」が物語を駆動させている例である。アンパンマンは終わらない物語なので、バイキンマンは消滅しないのであるが、バイキンマンが消滅すれば、それは同時にアンパンマンの終結を意味する。バイキンマンなしにアンパンマンという物語は成立不可なのである。もしバイキンマンが居なければ、ただアンパンマンの平凡な日常を淡々と描くだけになる。これはある意味で小説的になるかもしれない。『小説 アンパンマン』。

鬼滅の刃では無残を倒せば鬼は消滅するので、原作もそこで終わっている。当然すぎるくらい当然なのである。鬼亡き後の鬼滅の刃の世界は描きようがない。

それではドラえもんはどうか。一見、ジャイアンが悪なのではないかという連想が浮かぶ。しかし、これはドラえもんの駆動要素ではない。アンパンマンや鬼滅の刃の場合は、悪の存在がその物語のアイデンティティーに分かち難く結びついている。アンパンマン-(マイナス)悪=物語の消滅になってしまうが、ドラえもん-ジャイアン=それでも物語は続く、になる。それではドラえもんを物語として成り立たせている真の要素は何かと言えば、「のび太の困難」なのである。のび太が持ち込んでくる困難に対し、ドラえもんが秘密道具を提供し、ひと悶着があり一話が終了となる。そう考えると、仮にのび太が完全無欠の人間となり、困難を持ち込んでこなければ、ドラえもんという物語は終了するのかもしれない。

そう考えたときに、国民的アニメつながりでサザエさんやちびまる子ちゃんという物語を駆動させている要素は何なのだろうか。これはアンパンマンやドラえもんよりも複雑なのではないかという予感がしている。この考察はまた別の機会にしてみたい。

はじめ


日常系の文脈で語れそうなtakker
日常系のアニメは、登場人物たちの日常生活を描写するのがメインであって、特に終わりがあるわけではない
もちろん、多少は成長要素があるので、「一定の年齢になる」「何らかの壁を超える」ところを物語の終点とすることも可能ではある