とりとめのない(日記)2月
稽古
ひょんなことから収録をすることになって本番一週間前で草。こんなギリギリで大丈夫かぁ?と思いながら稽古場へ向い、製本された台本を受け取り、ほぼ初見で参加したのだけど普通に読めたし、「うん、いいね。そんな感じ。」と反応をもらい、要求に沿った演技を一発で返せたので、終始楽しいラリーを監督としていた。いつの間にかこういうことが自然にできるようになっていることに成長を感じたし、朗読って神だなって思った。収録が朗読だったらマジで最高だったんだけど、残念ながらそうではなく、他にも演者はいて、みんな若い。年齢も芝居の歴も。
全体的に基礎が甘く、滑舌の緩さに対する意識がない、イントネーションのバリエーションの乏しさ、アクセントを瞬時に修正したり、要求に応えるための理解力というか、そもそも作品に対する読解が全くできておらず、基礎を補うための役作りや作品に向き合う意識が何より低く感じた。それでは新しいイントネーションをつかむきっかけは生れないし、演者同士の化学反応を楽しめない。
ぽっと出のよくわからない、おじさんが口を出すのもどうかと思ったが、とにかく会話が成立していない、言葉が相手に掛かっていなかったので、「語尾への意識が甘いのでは」と監督に言うと、「今はそういうのはいい。技術の話をするとそこに囚われちゃうから」と言われた、確かにそれはそうなのだが、技術を先に知って心がついてくることもある、心のついていかない技術が死んでいることくらい昔から僕は感じることは出来ていた。技術に溺れなければ、技術がなぜあるのかを考えさせればいいのであって、技術を教えることは悪いことじゃない、この技術によってどんな効果が生れるか、君たちに足りないピースはこれかもしれない、あれかもしれない、と様々なものを出すこともまた必要なのではないかと思い、内心苛立ちながら僕はうつむき、同じシーンを繰り返し稽古してる人たちの声に耳を澄ませていた。伝えよう、伝えようとガラス張りの水槽で、声をひたすらに張り上げるもの、自分のプライドを守るためだけに小手先だけでやったつもりになるもの、要求された指示から逆算して作品を解釈できないもの、それらひとりひとりに何が足りないのかを僕は視えていた。考え方も技術の一つだ、その考え方を与えずにひたすら同じ言葉を繰り返す監督にも多少の苛立ちを感じた。全員が全員伝えようとただもがき、頭を悩ませ、どうすれば伝わるかを何も考えていない。伝えると伝わるはまったく違う。この人達は結局自分が伝えようとしたことに満足をして、伝わったことなど大して重要視していないのだ。歩み寄ってなどいない。
どこにもほんとうはみえなくてまたこれか、と思ったりした。だから人との芝居は面倒くさい。
正直台本は穴だらけで、お世辞でもあまりいい作品とはいえないけれど、それでも役を演じることは楽しめるし、台本の中でのコミュニケーションはもっと楽しいもののはずなのだ。
それをまだ知らないなら僕が引っ張ってやる。と思った。一人でもいい、僕と掛け合う子たちに意識を強く向けて役に尽す。
こっちの世界にだれか引っ張ろうと思って。彼等を見て、彼等の正鵠を射るように鋭く矢を放つ。僕も滑舌は甘いほうだがそれでもできるだけ共振するように、澄んだ発音で。ワンフレーズの息の吸い方から肺に落とすイメージと膨らんだ感情の流れ、口腔と鼻腔のベルから放出される音色と響きを部屋全体に行き渡らせるように、そして彼等の心臓を打つように祈る。
正直途中から監督のディレクションなどどうでもよかった。僕は僕の答えをただ台詞で示し続ける。
掛け合いをするひとりが台本から目を外し僕を見る、目が合う。やっとつながった。水槽の中でもがいていたあの子がやっと確かめるように僕に台詞を投げかけた。僕はそれに応えて、彼女を見、ほんの少し表情が和らいだような気がした。
ほんの一瞬だけど通じ合ったような気がして、ほっとしたときに、時間がきて、稽古は終わった。
帰りの準備をする彼等を眺めながら、彼女とまた目があって、不思議そうな戸惑いをもった目をしていた気がした。
特にだれとも言葉を交わすことはなかったが、台詞が交わる瞬間を久しぶりに僕は味わえて、芝居が楽しいものだということをまた思い出した。ひとりの方が楽しいけど。
書く場所がいくつもあると、どれかが疎かになってしまってあー最近書いてなくてごめんねーみたいな気持ちにもなるが、今はここに書きたいから自分の指向性はこうなっているんだな、みたいなこともあるので気分屋な自分との付き合い方としては向上してるような気もする。
手書きをしてからタイピングに戻ると思考が行き過ぎたり、脱線していることに気づく。
もともと思考か速いタイプじゃないので、タイピングが早くなればなるほど水がどんどん溢れてしまうのだと思う。喋っている時も似たような現象が起こる時があるので収拾がつかないこともある。日記を書き始めた頃はタイピングがあまり速くなかったのと朗読の癖か後先の文章を何往復か頭の中で読むようになっていたため書きながら考える、考えて書き直すという時期があった気がする。だからといって上手に書けていたようには思えないが。しかし最近は文量やスムーズにタイピングできる快感に囚われすぎて書くことに意識が持っていけてない。慣れから来る油断もあるし、老いの問題かこの頃集中力の深度が浅い。集中力が浅いからなのか老いによる記憶力の低下なのか、それとも精神的なストレスによるなにかしらの負荷で脳内で目的地や頂上が霧散することがある。そのせいか打つ速度を上げようと焦っていろいろな部分を洩らしたり、通り過ぎたりしている。
脳が何度も空振りして少々恐い時がある。
思考の土台の安定感というか蛇口の締まりというかそういうものをもう少ししっかりさせたい。
排水
最近はとりあえずできる時に排水できているのでまあまあいいんじゃないか?
他の日記の文量が増えてるから、ここにはあんまり書けてないなぁってなっちゃうけど。
最近は手書きも始めた。
定形
定形でまず三百首書こうと思ったけど、定形じゃなくて残されない短歌ちゃんの気持ちを考えてよ!って僕の中の美少女が言ってたので残します。あのときの自分との約束を破ってでも、今大事だと思うことを優先します。それは正しくて残酷なのかもしれない。けれど、あの頃にわけもわからず始めた短歌と今やっている短歌は違くて、二百首を通じて、何が大切かなんてほんとうはもう薄々気づいていたと思う。定形を崩してもそのリズム感が失わなければ、それでいい。
だからって崩しまくってステップの見えないものは僕は短歌だと思わないけど。
これからは自分が短歌だなって思えればそれでいい。そこにあるあやまちを愛せよ。
おにまい
おにまいのDVDと神棚買って祀ろうかな。
欠陥と傷
とっくに傷は癒えているのに、部品を落としたままだから秒針が進まないまま。
時間が解決してくれるのは傷だけだよ。
目を閉じる
天井に見てはいけないものでもあるみたいにまぶたを震わせながら、怖いもの見たさで開いてしまいそうな目に力を込めて眠ろうとしている気がする。
チャーハン食べた
お昼にウーバーを頼んで前回食べたチャーハンをまた頼んだ。頼んだ時刻は十二時で飲食店は忙しい時間帯だろうに、思いの外配達は速く、二十分くらいで到着した。
最近はあまりお昼をしっかり食べないので正直胃があまり臨戦態勢になっていたなかったのだけど、プラスチックの透明な蓋ごしに、盛られてたチャーシューとテカテカしか一粒一粒を見ていたら空腹になった。
蓋をはずすと米と油の香ばしい甘みと重力を感じる。
今回のチャーハンは前回食べたときよりも、お昼時で忙しかったのか、油が多い気がするし、米が少し湿っぽく形が崩れているのがところどころ見受けられた。
チャーハンに限らず食感というのはおいしさに関わる大きな要素なので少し心配だった。
一口すくい、口に入れると、味は前回と同じだったのだけど、油が重い。舌全体に浸透して、口内いまとわりつく感じがあまり気持ちよくなかった。
チャーシューは相変わらずおいしくて、こちらは白米を持ってきて、それといっしょに食べた。
忙しいタイミングだったのか、作った人が違うような気もした。
それでもおいしくはあったので、頼んでよかったとは思う。それに改めて今後作るチャーハンの指針が見えた気がする。
才能のある兄を持ったハヤシライス
ハヤシライスを食べるたびいつも何かが足りないような気がする。
これといって欠点はなく、普通においしいのだけど、おいしさの限界をどこかで感じている。
オーディションだったら、才能はあるけどのびしろが感じられないみたいなタイプ。
もちろん審査する側に問題があったりするし、ディレクション次第でほんとうはもっとおいしくなるのだろうけど。
ハヤシライスはまず、「ハヤシ」がよくわからないし、名前からしておいしそうな気はしない。
食べてみるとデミグラスソースが甘い。市販で売られているルーなどは大抵甘くて、個人的には甘いものとごはんはあまり好きな組み合わせではない。米の甘みを邪魔する気がして。
しかし不味いわけではないのだ。
ただ、~ライス、という名前だと、どうしてもカレーライスを意識してしまう。
色が微妙に近いのもよくない。
はじめてハヤシライスを食べたときに、これはカレーライスのにせものじゃないの、と思ったあの頃から、無意識にカレーライスと比較してしまっている。
ごはんに合うあの辛さ、どんな具を入れてもだいたいおいしくなってしまうポテンシャルの高さ、他の料理にもとり入れられる幅の広さ。
カレーがあまりにも優秀すぎて、同じライス家系のハヤシはどうあがいたって劣ってしまうのだ。
個人的にハヤシライスは二日目の朝にカレーを食べたあと、余り過ぎて昼も食べるときと同じレベルのおいしさだと思っている。
散々な言いっぷりだが、サイゼでは必ずといっていいほどハヤシ&ターメリックライスを頼む。
ターメリックの苦味とハヤシの甘みがとてもかみ合っていて好きなのだ。
あれを編み出したサイゼはハヤシライスの名監督だと思う。白いご飯だけがすべてじゃないんだなぁ。
アコギのバグ
中学高校と六年間吹奏楽を経験して一曲を仕上げるまでにそれなりに時間が掛かるとわかっているはずなのに、なぜだがアコギになると練習を放棄している自分がいる。
アコギを初めて二年と三ヶ月が経っているけども正直まともに弾けている楽曲は一つもないといっていい。
おおまかに全体をなぞることはできているけれど、楽譜通りに弾けているか、落としている音がないか、と問われるとまったくできていない、すべてが雰囲気で留まっているものばかりだ。
アコギに演奏スタイルは大きく分けて二つ、ソロギターと弾き語りで、僕は後者をメインにやっている。
弾き語りにおけるアコギは基本的に伴奏としての役割なので、歌がそれなりに歌えていれば少しミスをしてもあまり目立たなかったりするし、簡単な伴奏でもそれが余白になったりして雰囲気を作れたりするからそれで許されてしまうことがある。
弾き語りのアコギの演奏パターンはほとんどが似たような動きが多く、コード進行もカポを使ってキーを変えれば弾きやすくすることができる。
そのため、いくつかのコードを抑えられるようになれば、カポの位置を変えるだけで大体弾けるようになったりする。
あとはコードチェンジの際にスムーズに左手が移動できているか、それが出来るように抑え方を考えられているか、それを実践するための可動域や筋力はあるか、みたいな感じになる。
左手が問題なければあとは右手でリズムを出していくだけだ。
左手の作業はギターのみだけど、リズムの方は音楽の経験があればかなり有利になる。
個人的に初心者のギターがうまく聞こえない原因の大半は左手がちゃんと抑えられていないことよりも、リズム感がないことだと思っている。リズム感がなければ楽器の上達は難しい。
その点でいえば楽器経験者の僕は早い段階で右手の動きがどのようにリズムにあてはまるかを早く理解できたし、利き手というのもあり難なく動かすことができた。
だから基本的に左手が追いついていないのだけど、これに関しては回数を重ねるしかない。
特に小指を使うコードは意識して抑えるというより、握った感覚で覚えるみたいになる。
コードを抑えるのもリズムを刻むのも感覚的なもので弾くというよりも身体の一部にするみたいな感じがする。
まあ楽器はすべてそうなのだけど、ギターはその中でもかなり感覚的なものが多いし、その分音楽を始めやすいような気がする。
頻出するコードやリズムが手に染みついていれば、大体弾けるようになるし、なんとなく弾いていたらどんどん出来るようになっていく。
このなんとなくの上達と要求を下げれば大体の曲を弾いたことにできるところが怠けさせる。
インターネットは本当に便利なので楽曲名+コードと入力すればだいたい出てきて、それをなんとなくなぞればそれっぽいものができる。インスタントに演奏ができて、それがよっぽど変なリズムじゃなく、コードが最低限鳴らせていれば、演奏したことになってしまうのだ。
そういう緩い成功体験に浸っていると、難しい曲をいざ練習しよう、となっても長続きしない。
簡易的な弾き方に自分で改変してしまったりすることもある。
ギターの演奏年数と演奏技術が比例しないのはこれが原因だと思う。
現に僕はこの現象に二年間陥っていたので始めて半年あたりから目に見えた成長がない。
本来楽曲を仕上げるにはもっと時間が掛かるということを知っているはずなのに、インスタントなものに依存してしまって、仕込みの作業を全くしていない。
心の代謝
いつだかアウトプットをしすぎて、空っぽになってしまったと書いていたが今度は反動でインプットをしすぎて、それらが淀んでいる。
空の青の底を見つめても何も思い浮かばなかった日に、感性が朽ちて、または、老いてしまったのではないかと思ったのだけど、そうではないような気がした。
今まで抱いてきた感じたものがすべて垢になって汚れだけが残っているような。
最近インプットの時間が多すぎて、それらが上手く整理できずにいて、すぐに取り出せなくなっているみたいだ。
そして、その溜まった水瓶を手探りでかき回しているために、余計に混沌として受け取ったはずの言葉やその感覚達が濁りになってしまっているのだ。
それはむしろ幼さのような気がして、考えすぎてしまってどんな言葉を口にすればいいのかわからない、という状態なのだと思う。
いくつかの未完成の方程式が頭の中でずっと漂っているのを僕はただ見ることに精一杯でそれを完成させるための時間を僕は自ら少くしてしまっていたのだ。
アウトプットとインプットをバランスよくやらなかったことが、前回も今回も原因のようだ。
これらの答えはすべて実践でしか導きだせない。僕は選ばねばならない。
じっと、その青の底の深い青にポイを滑らせ鮮やかな言葉を掬い上げられたら。
便秘
創作の話をこないだした時に便秘について話したが、これはやはりひたすらに出すしかない。そして出すためにひたすら溜め込むしかない。
排泄は適度にやらないと健康に支障を来す。
創作で便秘になる、というのは嘘でしかない。何かを創りだすことはできないわけではないはずなのだ。
自分の今の感情をありのままを書き出すことは創作ではないのかもしれない、糞でしかないのかもしれないが、しかしそれは肥しになるかもしれない。
糞でいいのだ。どうせ糞しか生み出せないのだから。その下らないプライドこそ便所に流してしまわなければならない。
便秘にさせているのはきっとそれなのだ。
それが垢でも、膿でも、糞でも、それらを無駄にしたくはないと思っていたはずだ。
どこまでいったって僕らは清潔になれない。それらを排泄しきった瞬間に清潔だと思いこんでいるだけだ。
ヤスリがけができないくらいぐしゃぐしゃで面が濁った色に剥げている。
目を閉じると乱れた波形が見える
音だけが聞こえない。
耳鳴りが肺を止めている
顔と名しか知らぬ人たちが
わかったようなふりをして
支配しようとする
べんきに座っていると天井が高いことに気づく
むかしのじぶんにたくさんうそをついているけどいまのじぶんにはついていない
過去をおざなりにすれば多分もう創作はできない
僕はいまこれからについてずっと考えている
もう二度と会わなくなるのだろうか
いままで別れを告げた人たちにぼくは一度も会っていないから
まったく別のいきものになってしまおうか、とずっと考えている、醜いサナギ。
他人の評価
今日ちょっとそういう話になったんだけど、自分が思ってるより他人からの評価が高くてそんな世界知らない、と連呼してしまった。
塩辛を買った
コロナの療養を明け一週間と少しが経っているのだけど、検査で取られた一時金(5,000円)の一部返金を受けとりにいってなかった。
一週間程前からずっと受け取りに行こうと思っていたのだけど、休日に病気でもないのに病院に行くのはなんかもったいないような気がするし、戻ってきたお金をコロナ明けのご褒美として帰り道ですべて使い切ってしまう気がしたのでもう少し冷静になってから受けとったほうがいい気もしていて、しかし、ウーバーイーツ、焼肉もいいなぁなどといつまでも考えている自分がいた。
払ったお金が返ってくるだけなのに、得をした気分になってしまうのはバグだなと思いながら、これ誰か信頼できる人にお金を預けて定期的にもらいにいく、みたいなことをすればハッピーになれるのでは?と思ったりした。
臨時で手に入るお小遣い程度のお金はだいたい食に費やされる。
一時金の返金は2,500円だと聞いていたので、その金額で食べられるものを一通り想像した。
ラーメン全トッピングしてもお釣りが出るし、ステーキでもおそらくお釣りがでる、焼肉もランチなら2,500円以内だろうし、寿司もいいなぁなどと想像と食欲を膨らませる。
このままではいつまで経っても一時金を僕は受けとりにいけない、僕はそのお金をギターの調整や備品などに使いたいのだ。
だからこの食欲はできる限り抑えなければならない、しかし、食欲を抑える方法は食べたいものを食べるしかない。
ほかのものでほかの欲求を満たしても、食べたいものはいつまでも心の胃袋で消化されないのだ。
それならできるだけ少額で抑えるべきだと、こないだ発見した近所の大衆中華料理屋にするか、後輩に勧められたセブンのカカオが香るシリーズのコンビニスイーツを買うかで悩んだ。
値段的には後者の方が安いのだが、コンビニスイーツというのは一瞬で溶ける。300円が30秒で無くなるのは、かなりの贅沢に感じる。それに胃は満たされない。
それならチャーハンの方がいいのだけど、ここ三年間、外食に行ったのは指で数えるほどしかない人間なので、なんだか注文からの待ち時間に耐えられないような気がして、コロナ明けだし、まだウイルスが残ってるから、と言い訳をして行かないことにしていた。
ならウーバーイーツしかないかな、と思ったけれど、チャーハンをウーバーイーツで頼むと店内の倍くらいの金額を取られることを知ったので複雑な気分。
少しでも安く、お腹を満たせるものはないだろうか、と思いながらこの一週間ほど僕は悩んでいたのだ。
そうしてその問題は突如、塩辛によって解決されることになった。
一昨日、塩辛が食べたい、と布団の中で僕はつぶやいた。明日買いに行こうと思って結局外出すらせず、寝ころんで布団の中でもう一度塩辛が食べたい、と思いながら今日を迎えた。
瓶に入った塩辛を白米の上にぶちまけてかきこみたいなぁ、と思った僕はひらめいた。
病院に行って帰り道のスーパーで塩辛を買おう、ついでにセブンもあるからデザートにスイーツ買えばいいじゃないか、と。
これならだいたい600円くらいで済む。
僕は朝、顔も洗わず歯も磨かず、ひらめきに突き動かされるように着替えて、靴を履き、外へ出た。
外は快晴だった、自転車を漕ぐには最高の日和だ。
スーバーやコンビニを通り過ぎ、病院へ向かう。
病院へ着いて受付に紙を渡し、返金を待つ。それなりに混んでいたせいで、15分程かかった。
お金を受けとり僕は急いで引き返した、途中、別の中華料理屋もあって危うく行きかけたが、今日は定休だったため助かった。
コンビニに寄り、スイーツのコーナーへ迷いなく進むと、お目当てのスイーツは一個も置いてなかった。
これはラッキー、300円が浮く。何も買わずにコンビニを出て、すぐ近くのスーパーへ入る。
小さめのスーパーなのでワンチャン塩辛がなさそうだったのだけど、なんとか見つけ出して、321円。
これを手に入れてしまったら帰るしかないし、外食もできない。塩辛片手に飲食店に入店するやつなんか世の中におらんやろ。
家へ立ち漕ぎ、立ち漕ぎ、自転車を置き、階段を駆け上り、ドアを開け手を洗いマスクを放り、上着を適当に掛ける。
塩辛のプラの蓋を開けると、中にもう一つアルミの蓋が貼ってありそれを引き剥がす。
ぬらぬらとした触手に絡みつく紅色の粘液、見た目はきもち悪いけどもう身体がおいしいさを思い出しちゃって、よだれが出てくる。パブロフの犬。
割り箸を取り出してとりあえず一口食べると、白米の衝動!
これこれ~!世の中のうまいものを判断する基準の一つに白米に合うかどうかみたいなのが含まれてると思うんだけど、白米を食べることが当たり前すぎて忘れてるやつっているよね。
もう炊飯ジャーにチョップして、どんぶりに盛りに盛りました。
白米の重みに耐えられないんじゃないの?ってくらい盛られた白米に割り箸をつっこんですくい上げ頬張りました。
塩辛の塩っけが白米の甘みを引き立てる。白米の甘みが塩辛の塩気を引き立てる。
ご飯のお供の頂点って塩辛だと思うんだよね僕は。
そうして僕はご飯を2合くらい食べた。正直まだいける気がしたのだけど、明日の楽しみをとって置きたかったので塩辛を少しだけ残した。
明日の朝楽しみ。塩辛マジでうまいけど毎日食ったらあきるんだろうな。
惚け
快晴のみずいろの底を眺めていたら、橙から茜に移ろい気づけば濃紺から勝色。
みじんも計画通りに過ごせていない今日だが、まあこういう日もあっていい。明日は塩辛買いたい。
火
自分の胸の内に灯っているものが小さくなっていて、その火を絶やさないようむごたらしく延命している。
一度消した方がマシだろうな、と考える自分がいる。
朗読
最近極力するようにしている。文章模写で本を読む習慣が身についてきたのはいいのだが、文章にばかり意識がいって肝心の映像が疎かになっていることに気づいた。
文章を読んでイメージをしてイメージを持ちながら模写した文章がどのようになっているのかを確認しながらやっていたはずなのに、映像が視えていなければ、ただ文字を見ているだけになってしまう。
以前より自分の書くものや、書かれてあるものの並びや選びに対して疑問を持つようになったのはいいものの映像化を怠って解釈の余地を狭めているようじゃ無駄になる。
美しい文字列ではなく、美しいものを文字で描き出したいということを忘れてはいけない
頭痛
寝不足か?
低音が戻ってきた
療養期間中に飲んだぺラックT錠が炎症にかなり効いたみたいで、陽性になる前から荒れていたであろう喉がだいぶマシになり、低音が戻ってきた。
まだすこしこもり気味であったり、余計なフィルターを通している感覚はあるのだけど、以前は低音自体が出なかったり、まったく胸の振動を感じられなかったので、それを鑑みると本当に快方に向かっているような気がする。
冬から春へ向かうと同時に喉の調子が良くなってくるのは毎年のことではあるのだけど、今回の喉の不調はそういう慣例的なものだけでなく、慢性的な疲労なども感じられたので、それらが改善されているのがすごくうれしい。
とりあえず少しずつリハビリをしながら、今まで通りの高音や張りを取り戻したい。
ボイトレ
最近はあまりボイトレに関して研究意欲が湧かないのでごくまれにおすすめに出てきた動画をチラ見するぐらいなのだが、正直まだミックスボイスが~、エッジボイスが~、云々言ってるのか~という感じで厭きる。
そこまで間違ったことを言っていないのだけど、あくまで方法の話であって、感覚的な部分は乏しい気がするし、そもそも方法を知ったところで大半の人間がそもそも悪いフォームで発声している可能性が高いので、ミックスボイスのやり方の話をする前に、知ろうとする前に、見直さなければならない部分がある。
どうして歌が上手くならないんだ~、高い音が出ないんだ~、の悪循環にハマっている人などは、そもそもくっそ汚いフォームで走っても足が早くならないのといっしょなのだ。間違った方法で筋トレをしたって筋肉はつかない。
習ってもいないのに、なぜ自分の発声が正しい前提でことが進んでいるのか不思議でしかない。
高い音が出せないのは習っていないのだから出せない人が大半である。
しかしもともとフォームが良い人間が世の中にはいる。これは姿勢がいい人が自然にいるようなもので、そういった人は生活の中で勝手に筋肉が付いていくのだ。どうして世の中に練習もしてないのに歌が上手い人がいるの?という疑問に対する答えはこれでしかない。
風呂
風呂は一番考え事をしやすい場所なのだということを思い出した。久しぶりにタブレットを持たずに風呂にゆっくり浸かった。
普段はyoutubeや溜まっているアニメなどを体を洗いながら、風呂に浸かりながら消化するのだけど、時間を有効に使えているようなつもりだったのに、実はもっとも無駄遣いしている気がしてきた。
到達しない
書きたいという感情に至るほどのことがない。そういうものをここに書いているはずなのに。
ここの人々に対して、世界に対して、閉ざしている気がする。
できるだけ開いて、ほんの少し書くことも大事だ、と信じよう。
仮想面接
ときどきこういう仕事がしてみたいなぁと想像して、どんな資格が必要か、どんな人材が求められているのだろうか、とかを考えてみたりして、もし自分が今からその職に就くとして面接でどのような受け答えがよくて、どのように話を運んでいけば理想的かなどを想像してみたりする。
今日は郵便配達が少しいいなぁと思ったりしていた。
自動二輪車の免許が必須なのでとらねばなあと思いながら。
手紙の配達は自分の精神衛生にいい影響をもたらすような気がする。
志望動機はそれを軸に話していくか、という感じで考えていく。
精神衛生上にいいなどと言うと、精神的に問題があるのかと疑われるので言い方を考えねばならない。
ここは手紙にまつわるエピソードや自分が手紙を書く理由とともに、いかに素晴らしいかについて語り、手紙オタクになりきるのがよさそうな気がした。
過去に手紙を送った相手が読み返して元気になったと報告を受けた、や、友人からもらった手紙をいまだに読み返したり、封筒を眺めるだけでもあたたかみを感じているなどを言えばそれなりに印象はいいだろう。
そして自分の長所や短所のどれを抜粋して適正のある形に直していくか、などを考えてみたりする。
見様によっては自分の長所と短所などいくらでも書けるし、どちらにも適用できる。なので、自分を客観的にどう捉えるのかが、一番重要な気がする。そこの一貫性。
ありもしない面接や自分がその職業に勤めている姿を想像しながら時間をつぶしている。
物書き
物語を作ってみようかな、とこの頃思うことが増えていたり、夢で作曲をしていて、それがすごくいい曲だったりするので、創造をしたいと本心は訴えているのだなぁと思う。
物語を作るにあたって何をすればいいのだろうか、何を書きたいのか、僕はどんな物語が好きなのか、と考えていると、もう世の中にたくさん存在しているからいっか、という気持ちになる。
言い訳でしかない。
毎日文章模写をしたり、読書をしたり、朗読をしたりしていながら、それらが自分の文章力にまったく影響していない実態を把握するのが辛いのだ。
結局書く力というのは書くことでしか得られないのだろうけれど、自分の実力を把握してもう少し頑張ろうと思えるものは現状歌ぐらいしか自分にはない。
何かを書いて、それを育てていくこと、受け止める覚悟がまだ出来ていない。
こんなところで立ち止まっている暇はないんだぞ、と後ろからいつも声をかけてくる君に僕は一生向き合わずにいる。
意味
毎日書くのにはやっぱり意味があるなあ、と感じている。
本心を打ち明けるということをこの頃まったくしていなかったのだろう。
一度蛇口を捻って少しでも汚れた感情を垂らすと、それを伝ってどんどん感情が流れ、出口を見つける。
それらは滲み、広がり、小さな点だったものたちがつながったり反発しあう。それが必要なのだ。
ここは排水溝、僕は大便製造機。どこまで行ったてすべてがくそでしかないのだから、とりあえずお祈り回数を増やすしかないのだ。
待ち続けるしかない。じっと。
凍結
こないだ水道が凍結して二日間くらい昼間水が出ない時間があった。夕方には修理が完了して、水が出るようになりしばらく出しっぱなしにしていた。コップに汲むとよどんだ水の中に小さなゴミが浮いている。
自分の感情もいまそんな感じなのかもしれない、とふと思った。
蛇口を捻らなかっただけかもしれないけれど、よどんだ感情が胃のあたりを重々しくさせていた気がする。
昔尊敬していた人や好きだった人のことを思い浮かべて急に嫌いになったり、苦手なところに気づき始めることがある。
久しぶりに蛇口を捻ったら出てくる錆のような感じなのだろう。
なんとなくこの頃は嫌なことや、他人に対して悪感情を抱くことが多い気がしたがもしかしたら凍結していたのかもしれない。
嫌うなら、もっと清潔な水の状態で嫌いたい。
謳い文句
やみつき食感とか、もっちりとか、とろ~りとか文字の方がおいしいよね。
雪あかり 銀色
外を眺めたら雪が延々と降っていた。外へ出ると銀色のキラキラした粉が肌に触れて溶けて、冷たさを滲ませる。
道路も、建物もみな雪を被っていて、街灯が反射しいつもより明るかった。
慎重に歩く人や、いつものようにスマホをいじりながら歩く人、車の走った形跡をそのまま丁寧になぞるように走る車、両足をいつでも着地できるように地面すれすれに浮かせながら走る原付。
人々の余韻がすべて雪に吸い込まれて、静かだった。
傘をささずにいる人もいた、雪だと以外とささない人もいる。粉チーズみたいだ。
上着に飾りつけられた銀色に煌めく結晶たちを玄関で振り払いながら、窓際を見た。
翠色を帯びた光が部屋を浮かび上がらせる。静止画のような世界だった。
雪だるまをつくった
あまりにも暇なのに外には雪がたくさん積もっているので、後輩になんとなく「暇だからさ、雪だるまつくんない?」と提案したら、「いいっすよ」と言われたので、二人で雪だるまをつくった。
雪はさらさらしていて、かたまりずらかったため、つくるのに少し苦戦した。後輩は雪国育ちなので僕よりもつくるのが上手だった。僕の雪玉は途中で半壊したので、余計に時間がかかったが二〇分くらいで完成した。
僕は大玉のすいかくらいの雪玉を、後輩はバランスボールくらいの雪玉を持って、日陰になりそうなところに適当に置いた。
「こんなに冬を楽しんでいるやついないだろ」「そっすね」と笑い合いながら、頭をびしょびしょにして二人でストーブの前で暖をとった。
丁寧に選ぶ
昔、言葉を丁寧に選ぶところが好きだと言われたことがあった。思えば僕はこの言葉に少し呪われているような気もしないでもない。僕は人より理解したり思考するのが遅いので基本的に時間が掛かるだけなのだ。そこまで丁寧ではないのだけど、納得のいかない言葉選びには少しモヤモヤしたりイライラするので、トイレや入浴中、布団の中で考えこんだりする。しかし、考えても僕の持っている語彙じゃしっくりくるものがない、その度に本をもう少し読んでおけば、とか、日記を昔から書いていれば、とかを思ったりする。
怒らないため
昔より言語化して整理できるようになってからは大分制御が利くようになったような気がする。
日記に書き起こせるようになったおかげで自分の平穏が保たれているのだなと気付いた。
この頃は書き起こせてないから会話などでインスタントに感情を消化してしまっている瞬間に気付いた。
話しているときやっぱりレコーダーずっとまわした方が良さそうだな、という気持ちが前よりも大きくなっている。
特にない、集中する時に意識を対象に向けて沈んでいく作業をしたりしたけど、感じとることが難しい。
たくさん寝たのだけど眠い。後遺症なのか寝る前も寝起きもすごく眠い。療養で思いの外体力を消費していたのか、ずっと寝転がっていたからなのか。身体を起こしたり、次の行動を起こすのに時間がかかるし、集中力も持たない。
これらをすべて後遺症として片付けてもいいような気がしない。
短歌
最近短歌を書こうという感情がまったくわいてこないし、そういった意志が乗移ることがない。
何かを創らなければこのまま腐っていくような気はするけれど、何を創りたいのか、何をしなければならないのか、掘り出してみてもひたすら土ばかり、ツイッターに流れてくる詩や短歌を見ても、何を言っているのかわからない。
何も見えないし、何も聞こえないし、香らないから、言語化のしようがない。
心が朽ちているような気がする。
療養期間
今日で療養期間(7日間)が終わる。治るのに五日もかかるなんて思わなかった。
はじめは三日で治そうと意気込んでいたのに、インフルエンザとは勝手が違うようだ。
昨日と今日、治ってからの二日間はあっという間だった。そう、一日はこれくらいの長さしかないのだ。
苦しんでいる内に二月に入り、あと三週間で今月も終わる。
高熱で寝転がっていた五日間はかなり長く感じたが、過ぎてみればあっという間。
しかし確実に動きが鈍くなったし、体も頭もまだ重い。
生活へのブランクを与えるには十分な期間だった。
明日から普通の生活に戻らなければいけないのが非常に面倒くさい。
体調が治ると秒針も正常に動き始めて時間の流れが規則的になる。今日は途中で目覚めたりすることなく朝の6時頃に目がさめていつもの生活の雰囲気を感じた。
療養期間中は部屋という空間に圧迫されるような感覚があったけれど、今日は窓越しに外の空気の音が聞こえる。
少し歌ってみたけど、まぁまぁ歌えた。
ちゃんと重力を感じる。代謝が戻ってきたのか布団が熱い、早朝は汗をかいた。正常な寒気が服と肌の隙間を通り抜ける。
そうそう冬の寒さってこういう感じ。清潔な味がする。
治ってきた気がする
のどの奥にいばらでも生い茂ってるんじゃないかってくらいに痛い。
唾を飲み込まなくても痛い。
おかげで毎日三時間しか眠れていない。
なんとか無理やり寝ている。やっぱり口は開くし飲み込むのが痛いから涎を垂れ流すという結果になっている。
これはもうのどを治すのは一度後回しにするしかない。
復讐
僕は復讐がしたくて創作をしているからそもそも美しいものなど創れない
どれだけ美しいものが描けたとしてもそれは刺すために研いだ刃物にしかならない
と思うときがある
ラスボス戦の開幕に何故か理不尽にダメージを受けて、それが後に響いている。
検査で綿棒が擦り付けられた箇所にウイルスが入り込んで激しく熱を持っている。
唾を飲み込むたびそこを通過した瞬間蒸発したような感覚。
加えて初日の異様な寒気も襲い、満足に寝付けない。
僕は唾液や痰の分泌が多いため、飲みこまないようじっとしていると窒息する可能性がある。
死ぬならウイルスが身体からなくなった状態がいい、処理が大変だろう。
こんなに咽喉も酷く痛み、寒気も感じるのに熱は微熱のため、薬もそこまで必要じゃない。
バファリンは一日二回、昨日一度頭痛がきかけたが、飲んでしばらくするとひいた。
バファリンを飲んだあとは比較的安定している気がするが一日二回でクールタイムが六時間。
飲むなら遅めの午前と早めの夕方に飲みたい。
自浄作用
のどスプレーを何度も噴き付けているが、痛みは全く引く様子はない。
悪化していないだけ救いだがこれだけ噴き付けて効かないと不安になってくる。
後遺症で以前のように歌えなくなってしまったらどうしようかと考えてしまう。
でも歌えなくなったら、僕は自分が歌いたかった歌を作れるんじゃないか、とも思う。
まあでも表現ができればいい、その点で歌や音楽は優秀なのだ。
体があれば出来るのだから、リズムは手を叩けばいい、メロディを口ずさめばいい。
生きている限りいつでも始められる。そして日常に流れている。
肺も心臓も、歩く音も、風の音も。
それらをどう描き起こすかの違いでしかない。
言葉も、絵も、踊りも。
踊りもいい。
体があれば出来る。
ときに音楽を彷彿とさせ、音楽のよさを引き出す役者にもなる。
絵もいい、世界の観え方を共有するには一番わかりやすい。
それに大好きなものを描くときにどこが好きなのか、僕だけが僕を知ることができる。
言葉もいい。
膨大な知識を感じる、人間が創り出したからこそだろうか。
こうして知っているふりで書きつづけても疑ってしまう。
自分を疑い捜しつづけるのはバカらしくて愉しい。
昨晩高熱にうなされながら四つん這いで犬のようにりんごを食って薬を飲んで寝たら平熱に下がった。
喉は相変わらず痛い。
検査で鼻に突っ込まれた綿棒が上咽喉にあたって悶えまくって咳をした。
その当たった箇所がちょうど痛い気がする。
お大事になさってください
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アギャス