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『君主論』の背景メモ

ニッコロ・マキアヴェッリの出自

> ニッコロ・マキアヴェッリは、1469年5月3日、イタリアのフィレンツェ市中に生まれた。父親ベルナルドは法律家であり、母親バルトロメーア・デ・ネッリは詩文の才があって、しかも家計の支えに尽す、働き者の女性であった。この両親のあいだに、長男として、ニッコロは誕生したのだが、その前に姉二人(プリマヴェーラとマルゲリータ)があって、後には弟トットが1475年に生まれてくる。
岩波、p359

君主論が献呈された相手

> マキアヴェッリは1513年から翌14年へかけてほぼ書き上げた『君主論』を、初めはジュリアーノ・デ・メーディチ(1478-1516)に献呈しようとしたが、実際にはその甥に当たるロレンツォ・デ・メーディチ(1492-1519)――祖父大ロレンツォと区別するために小ロレンツォと呼ばれる――に贈った。より詳しい経緯は、いまは省くが、マキアヴェッリの献呈した相手を大ロレンツォ Lorenzo il Magnifico (1449-1492)と取り違えてはならない。
岩波、p200

大ロレンツォとメディチ家

- 共和政のフィレンツェを実質牛耳っていたのがメーディチ家。
- 大ロレンツォの時代にメーディチ家は最盛期を迎えたが、彼が亡くなり、イタリア半島は政治的な変動期に入っていった。

イタリア半島の変動期

- そのころの五大勢力は、「ヴェネツィア共和国・ミラーノ公国・フィレンツェ共和国・教皇領・ナーポリ王国」
- 大ロレンツォが亡くなった1492年8月、スペイン系のロドリーゴ・ボルジアチェーザレ・ボルジアの父)が新教皇アレクサンデル六世(在位期間1492-1503)に選出された。
- フランス王シャルル八世がナーポリ王国の支配権を要求してイタリア半島へ南下を試みる。ミラーノ公国のルドヴィーコ・イル・モーロ(1452-1508)は、私権の拡大を目論み、シャルル八世の南下を促した。
- 続く……