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『不良少年とキリスト』読書会
9月16日(水)から3回にわたって開催する予定(16日、23日、30日、10月7日)

>『不良少年とキリスト』とは?
坂口安吾(1906~1955)が友人・太宰治の死(1948)を受けて書いたエッセイ
太宰論から文明論、人生観まで幅広く話が繰り広げられる。
『不良少年とキリスト』は青空文庫にあるよ。

>坂口安吾
部屋きたないね

>みんなのメモ・感想

1948年6月13日 太宰治 死亡。
1948年7月1日 発行

てじ感想
読んでいて気持ちいい文体。これぐらい自由な感じで文章を書きたいものだ。バカヤローが癖になる。

どういうことについて語っているか
太宰治について
歯痛について
女房について
生きることについて
文学について
哲学について
学問について
不良少年について
キリストについて
酒について
自殺について
MCについて

しっかりとは分からない言葉
フツカヨイ
MC

読書して意味を調べた単語集
ズルフォン剤
サルファ剤のこと。ズルフォンはドイツ語の読み方。これは要するに抗菌剤である。
女大学
江戸時代中期以降普及した女子教訓書。家庭内の女子の隷従の道徳を説いている。一度嫁しては二夫にまみえぬこと、夫を天(絶対者)として服従すること等々、封建的隷従的道徳が強調されているらしい。
のろ-うと読む。
ローレライ
ドイツにある奇岩。また、その岩上にいて、美しい歌で舟人を誘惑し破滅させるという伝説の魔女。



登場する人物達
間接的な登場も含める。
坂口安吾
語り手。
坂口安吾の女房
壇一雄
日本の小説家、作詞家、料理家。太宰治とは盟友と言っていい程の関係であり、しょっちゅう遊んでいたようだ。文壇屈指の料理人。作家の坂口安吾とその妻・三千代を自宅に居候させていたことがある。
ブランデン氏
エドマンド・ブランデンのこと。イギリスの詩人、文芸評論家。親日家。
芥川龍之介
小説家。坂口安吾も太宰治も愛読していた模様。1927年に自殺している。
文芸批評家、編集者、作家。
織田作之助
小説家。太宰治、坂口安吾、石川淳らと共に新戯作派(無頼派)として活躍した。
亀井勝一郎
昭和期の文芸評論家、日本藝術院会員。1938年頃、太宰治と親密になる。
フロイド
オーストリアの精神科医。
田中英光
小説家。太宰治に師事した。太宰の自殺に大きな衝撃を受け睡眠薬中毒と化し、その翌年、同棲相手を薬物中毒による妄想のため刺す。その年に太宰の墓前で自殺する。
ヴァレリイ
マラルメ
夏目漱石
キリスト
スタコラ・サッちゃん
山崎富榮のこと。美容師で、太宰治の愛人。日記が残っている。太宰と共に玉川上水へ投身。
井伏鱒二
小説家。坂口安吾とは牧野信一主宰の同人誌『文科』に参加していて縁がある。ちなみに牧野信一も1936年に自殺している。
志賀直哉
小説家。
ドストエフスキー
ロシアの文豪。
ヘーゲル
西田幾多郎

登場する著作物
グッドバイ
太宰治の小説。初出1948年。
探偵小説
坂口安吾は探偵小説も書いている。『不連続殺人事件』(初出1947年)など。
晩年
太宰治の最初の小説集。初出1936年。
斜陽
太宰治の長編小説。初出1947年。
魚服記
太宰治の短編小説。『晩年』に収められている。初出1933年。
太宰治の短編小説。初出1947年。妻や子に背をむけて遊ぶ苦悩が自虐的に描写される作品。義のために遊ぶ、という独特な警句をふくむ。
桜桃
太宰治の短編小説初出1948年。
人間失格
太宰治の長編小説。初出1948年。
男女同権
太宰治の短編小説。初出1946年。
親友交歓
太宰治の短編小説。初出1946年。
如是我聞
太宰治の随筆。初出1948年。
アリョーシャ
ドストエフスキーの著作『カラマーゾフの兄弟』(初出1879年)の主人公。



>読書会の記録
9月16日
20:00の部
「MC」と「フツカヨイ」について
「ピエロとかエンターテイナーとかって感じ」
「「演じる」「ふり」みたいなものか」
「「魚服記」が、「これぞ、M・Cの作品」と言われていて、「父」はフツカヨイ的といわれている」
「MCは、文学作品として優れてるって感じなのかな。けど、「太宰ファン」は、フツカヨイを持ち上げる」
「自虐からくるエンターテイメント性が太宰にはあって、坂口安吾はそこを評価していたんじゃないかな」
「客受けのいいものを書いていた?」
「ホンモノのMCと、フツカヨイのMCというのが出てくる」
「自虐はフツカヨイのMCかな」
「ホンモノMC、フツカヨイのMC、歴史の中のMC、ファンだけのためのMC」
「安吾は「ホンモノ」を高評価して、「フツカヨイ」は評価してないようにみえる」
「マイコメジアンって普通に日本語訳したらどういう意味になる?」→「マイっていうのは「私の中の」っていうニュアンス」
「結局坂口安吾はホンモノのMCではない太宰治の作品は評価していないということ?」←「安吾の見立てでは、太宰は「人間通の文学で、人間性の原本的な問題のみ扱っている」といい、彼のテーマは一貫してると見てるんじゃないか。けど、その表現の仕方として、歴史の中のホンモノのMCとしての表現法と、太宰ファンに媚びもしている(?)フツカヨイMCと、2種類あったのではないかな……と」
「「魚服記」→これぞMCの作品、「斜陽」→ほぼMC、MCになりきれなかった、「父」「桜桃」→フツカヨイ的」
「文学がM.C=演じる、フリ=虚構?だとして、ホンモノの虚構とニセモノの虚構があり、太宰はニセモノの虚構に引っ張られて死に至ったのかな」

哲学について
「哲学めっちゃディスられてる」
「最後は、カントの批判哲学を思わせる」

関連する作品について
太宰治
『斜陽』→MCについて
魚服記』→坂口「これぞMCの作品」
『父』『桜桃』→坂口「フツカヨイ的」
坂口安吾
『志賀直哉に文学の問題はない』→坂口の見た志賀直哉について

22:00の部
無頼派について
「無頼派は戦後の正統派にも反発する自分なりの生き方を追求する派閥?だから志賀直哉批判してるのもちょっと納得がいく気がします」
「無頼は頼るものがないという意味だと思う。上の幻冬社の引用サイトによると、そこから「破天荒」と考えるのは軽率らしい
『 無頼派の「無頼」とは破天荒で、無軌道な生き方をする作家たちの総称ではありません。既成の文壇で「良し」とされている文学スタイルに反発する形で、作品を生み出した作家たちのことを言い、彼らの「何にも頼らずスタイルは自分で作る」という姿勢を指しています』」


鬱について
「これ読むと坂口安吾は精神強い人なのかなと思ったけどWiki読むと何度も鬱病に罹り、鬱病に使われてた薬の中毒で発狂したりしてるみたいですね。その坂口が死んだら終わり、生き続けないといけないんだ!と情熱的に語りかけているのを思うとより感動する」
「太宰治の自殺を批判しながらも太宰なんで死んでしまったんだ…という想いが伝わって感動する」
「棺桶を泣きながら蹴ってるような文章」
「親しい人を亡くすのは自身を千切られる様な辛い事、まして自殺で何もしてあげれないのは凄く辛い事、死に意味をもたせるものじゃないよなあとは共感」

不良少年とキリストの中で、坂口安吾は太宰を「本当は常識的」って書いてた


9月23日21:00

「不良少年」とは「キリスト」とは
「キリスト」は思想性のなさ、人間らしさの象徴と安吾は述べる。他では安吾は哲学や原爆を限度のないものとして批判する。安吾は人間の余計な部分、過ぎたる余剰を嫌っているのかもしれない。『堕落論』でも人間のあるがままの姿勢を推奨している。
太宰に関しても安吾は、根は「常識的」と評しながらも自分を偉く見せたい、かっこよく見せたい、冷笑的態度をとる「不良少年」と考えていた。ここでもあるがままを受け入れられない人間の姿勢が出てくる。
安吾は太宰のこの姿勢を太宰自身も自覚的であるとしながらもそこから抜け出せない状態にあると考えた。何故か。それは太宰が「フツカヨイ」的態度を取るたびに、それを喝采する太宰ファンの存在があった。
「フツカヨイ」とは創作において作品と作者の距離が近くなり作者自身にも様々な影響を与えてしまう状態のことであると推察できる。ファンサービスを重んじていた太宰は、自身がフツカヨイ的な作品を出すたびに喜ぶファンの存在に重きを置いていたのだろう。作品と作者の距離が適切な「MC(マイコメジアン)」の状態になかなかなれなかった。
実際、トーチカが安吾が「MCの作品」と言っていた『魚服記』と「フツカヨイ的」と言っていた『父』を読み比べると、前者は非常に冷静に物語を構築しているのに対し、後者は私情を強く感じられる程に熱の入った作品であった。
当時の太宰ファンは『父』のようなフツカヨイ的作品を喜んだのだろう。そして太宰もそれを察知し、フツカヨイ的作品を書き、その作品に蝕まれる悪循環が出来ていた。そう安吾は考えていた節がある。その悪循環の中で太宰は「不良少年」の道を進んでいったのだろう。
「不良少年」と「キリスト」についてはまだ考える余地は多そう

安吾の「不良少年」とニーチェの「ルサンチマン」の近似性について
太宰の家は裕福であるが「不良少年」になったのは何故か?

安吾と太宰の文章は似ている?
意図的に似せている?
安吾はMC?フツカヨイ?
安吾と太宰は近い性質を持っている。安吾は太宰作品に共感性羞恥的な苦痛を感じていた?

志賀直哉について
安吾は私小説が嫌い?
→私小説はフツカヨイ的になりやすい説

歯痛の苦しみ
「歯痛でなやんでるのもくだらないことで苦しむ太宰(自分)への皮肉(自虐)?」

10月7日
「父」気分が暗くなる。文章はスゲー。

思想……マルキシズムも関係ある可能性
『安吾は彼らと読書会を開き、モリエール、ヴォルテール、ボーマルシェ、デュアメル などに惹かれた。当時隆盛であった左翼文学やプロレタリア文学には全く魅力を感じず、(以下略)』

安吾の理想の作品
人間のありのまま、自分のありのまま……となると、フツカヨイになりがちだが、そこをうまくやるバランス感覚というか、そこをやり抜く強さみたいなものを評価するのかな?作品構築力というか

文学とは小説とは
安吾はもしかしたら文体の方に重きを置いているのかもしれない。対極に志賀直哉のような話に重きを置くような私小説があるのでは。