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書くことの愚かさを引き受け、愚かさを通じて私たちが接続されるために|takuma|note
> 書くことの愚かさを引き受け、愚かさを通じて私たちが接続されるために|takuma|note
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> 2022-06-06T10:23:27.000+09:00

avashe 実は前読んでいたが、十分な議論能力はないが、何も主張しないわけにはいかないジレンマがあるという話を友人にして思い出したので読み返した
この引用されている愚かさについてからして引用したくなる良い文章なので原文読んでほしい
>感情に発する暴言を恥じない人々、みずからの愚かさを露呈して恥じない政治的指導者たちが跋扈するのは、こんな世界では当然なのである。彼らはみずからの「愚かさ」の方が人々の「賢明さ」よりもはるかに優っていることを知っている。なぜなら愚かさを恣にする指導者たちは、多くの人々の「賢明さ」とは一皮むけば自己欺瞞的な愚かさにすぎないことを見抜いているからである。
これはSNSでやいのやいのしてる人全員へ刺さりそう

>私たちはどんな反対意見の人間とも、愚かさを積極的に引き受けた同胞として、ある種の暖かみをもって接続されることができるのではないか。(中略)「愚かさを引き受けたという点で、あなたはその点において倫理的であり、善いことをしたのだ」という考え方を、私は一つの見方として主張したいと思います。
>いくら客観を尽くして語ろうとしても、事実の選別に主観性が伴ってしまうならば、ひとりだけで、完全な「正しさ」への到達を目指すのは無謀な試みといえます。あなたの表現形態が単体で「正しく」なることはできない。
「個人の議論の不完全性」から「社会が持つ多様性という作用の重要性」に着地するのなるほどなと
雑に多様性は大事とか言われるより説得性が高い
そしてこれに私はパースのプラグマティズムにおける社会の役割との関係性を感じています。これもいつか書きたい。TODO